今、ここで

 バンコクの地上8階に住んでいる。これまでで最高峰の居住空間である。ベランダからの光景は、地上が少し遠い分、視界は少しばかり広い。街並みを眺めるのは、昼よりも日が暮れてからの方がよい。晴れ渡った夜よりも、雨降りに煙る光景を咀嚼する方が、より身体に馴染む気がする。
 今は雨季である。日本の梅雨とは違い、ずっと降り続けているわけではない。夕方から夜にかけて、毎日のように雨が降るだけである。日本だと「大雨」と言われそうなくらいの雨粒が一気に降り注ぐ。
 夕方に激しい驟雨があった。夜が更けても、雨雲の名残が都市を覆っている。街そのものが発光することで曖昧に浮かび上がる力強い雨雲から、細く、静かに雨が降り続いている。そこかしこに建つビルの航空障害灯がぼんやりと赤く明滅する。風の谷のナウシカに登場する、王蟲の群れを連想させる。バンコクで最高層の建物であるバイヨークスカイホテルの最上部のそれは、低くたれ込める雲を照らすほどだ。時折、稲光が雲の向こうで激しく光り、刹那に街を照らす。
 普段は気づくこともなく暮らしているはずの都市に特有の音が、辺りに充満している。低い音域でゴーッと響き続けている。よく耳を澄ますと、バイクや車の排気音や蛙の鳴き声を固有の物として聞き分けることができる。だが、いくら分解したところで、決して全体を部分に分かつことはできない。既にあらゆる騒音の集合体としての存在が、揺るぎなく確立されているのだ。
 スカイトレインの愛称を持つ高架を渡る電車が、右から左へ走る。日中には賑やかな車体広告も、夜の闇の中では認識されることがない。形取られた窓と扉の明かりが親しみを増しながら通り過ぎる。
 不思議に思わないのが不思議なほどに、僕はこの光景を見ている。
 朝起きて、朝食をとり、簡単に予習をして大学へ出かける。授業を受け、クラスメートと取り留めのない話しをしながら昼食を食べ、再び3時まで授業が続く。スターバックスで文章や単語を記憶する努力をする。放課後や週末には、「用事」や「約束」に基づいて行動することも増えてきた。ゼロから始まった街での社会性の獲得。
 夕食をどこにするかしばし楽しく迷う。帰り道に果物の切り売りを買ってくる。復習の続きをしてメールを読み書きしてビールを飲んで眠る。
 最近の日々を改めて見直すと、心の底からふつふつとした喜びがわき上がってくる。まるで翌日に遠足を控えた小学生のような高ぶった気持ちがいつもそこにある。
 覚えたばかりの単語が相手に通じたとき。毎日のように耳にしている電車のアナウンスが、ある日突然意味を持った語の連なりとして認識できたとき。FMラジオのおしゃべりが、例え1つのフレーズであっても理解できたとき。これは快感である。
 でも、1年後に、ある程度のタイ語の読み書きがきっちりとできるようになっていたとしても、だから何があるわけではない。ただ、学びたいから学んでいるだけだ。
 僕の行動の理由として、この欲求を拙い言葉で説明を試したとき、「今、行っとかないと、ということでしょう?」とある人に言われた。極めて思いに近い言葉であり、理解であると思う。彼もまた、旅に重きを置く人間である。2年以上かけてユーラシアをまわり、今は東京に暮らすが、次の南米行きの準備を着々と進めているような人だ。
 今自分がいる場所とやっていることに主体的な満足を得ることは幸せなことだと思う。


戻る 目次 進む

トップページ