二つの水の流れ

 ここ最近、タイ語の能力が一段階上昇した気がする。バスの行き先表示であろうが、お菓子の袋であろうが、目にするタイ文字は極力音を拾ってみることにしているのだが、なんとなく意味がつかめるものが急に増えた。映画の看板を見て「めーん……きっぷ……。なんだ、メル・ギブソンか」ということもあったけれど。それに、タイ人と会話をしていて、タイ語で理解をしてタイ語で返事ができるようになってきた。昨日までと違う世界に住んでいるような気さえするほどにドラスティックに。
 とは言え、もちろんまだまだ本当に初級の段階をずるずると這いつくばっているに過ぎない。授業でも会話文や短めのパラグラフが出てくるが、その内容はと言えば、思い返せば中学生のころに読んでいた英語の文章程度のものである。「はじめまして」「お仕事は何ですか」「ご家族は」「お母さんは市場へ買い物へ行きました」などなど。
 ドラゴンクエストでもそうだけれど、最初の内は革の服をまとい棍棒片手にスライムを数匹倒しているだけでレベルアップするのである。今はまだまだそんな程度だ。その内に、現れる壁は段々と高くそして堅固になってゆく。でも、語学修得の世界にはメタルスライムなんていない。ただただ、スライムをぷちぷちとつぶし続ける他はない。
 だけど確実なのは「ふっとテイクオフした感覚」は、快感であるということだ。雲を抜けるまで知る由もなかったのだけれど、そこには陽が輝いている。そして見渡すことのできる景色が、少しだけ広がる。
 問題もなくはない。先日、空港で「I hope an emergency exit seat, and isle side, too.」と言うところ、最後のtooの代わりに、タイ語の「ドゥアイ(同じく)」という単語が唇からこぼれそうになって少々焦った。
 英語に関しては今のところ何も手当をしていない。「ちょっと、これはまずいな」と、正直なところ思い始めた。主眼は言うまでもなくタイ語ではあるが、英語の方も疎かにするのももったいない。
 授業は既に8割方タイ語で行われている。クラスメートとの会話は、まだ英語の方が多いが、そんなにたくさん突っ込んでしゃべるわけでもない。ここではNHKのビジネス英語を聴くわけにもいかないし、ベルリッツに通うのもちょっと金銭的に厳しいものがある。
 ということで、ささやかだけどすぐにとれる行動を決めた。スターバックスに行ったら、ヘラルドトリビューンの記事に一つだけ目を通す(新聞が各種置いてあるのだ。読売の衛星版もたまにある)。それから、家でインターネットにつないだときは、バンコクポストのサイトから記事を同じく一つ拾う。5分もかからない話しではあるけれど、とりあえず自分の行動に照らして、こうしておけば、ほぼ毎日英語に触れることになる。これで当分様子を見てみるつもりだ。
 学習経験だけでいけば、大学一回生のときのフランス語というのもなくはないのだが、身に付けるなんてところまでは到底及ばない内に単位が取れたので、あっさりとやめてしまった。今では「ジュテーム」の綴りさえあやふやだ。だから、外国語が二つ頭の中に同居している感覚は生まれて初めてのことである。
 二筋の異なる水の流れが交わることなのないような水路を切り開きたい。


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