森の中を進む

 最初に「ノルウェイの森」を読んだのは中学生の半ば頃だった。インパクトを受けたのはむしろ性的描写の方だった。
 その次は、少し間を置いて大学最初の夏ではなかったかと思う。その二度目を契機に、僕の好きな本の一冊として心の中に一定の空間を占めるようになった。
 上海からスタートして、1ヶ月少々の後にたどり着いたバリ島の山の中で、ひょんなことから出会った相手が早稲田の文学部だった。彼もビールと春樹が好きだったことから意気投合して、南国の陽射しの下のビンタンビールとオニオンリングで、ノルウェイの感想と解釈を延々語り合っていた。
 物語の冒頭に登場する「記憶というのはなんだか不思議なものだ。」で始まるいくつかの文章の連なりを、教育実習に出かけた高校で英作文の問題として生徒に課したことがある。少なくない答案の中に「Memory is wonderful.」とあった。目の前の霧が一瞬にして消え去るような感動を覚えた。僕がひねり出した解答例でも、そして実際の英訳本を見ても「不思議」には「strange」という語を当てていた。けれど、確かに「wonderに満ちている」の方が、より正答だ。
 京都で暮らしていた時代に、「阿美寮」のある辺りを尋ねてみようと何度か考えたことがあった。なんとなく場所のイメージはつく。北山のずっと奥で、たぶん市バスではなく京都バスに乗って行くような所なんだと思う。北山杉がまっすぐに生え揃っているような静かな山奥。けれど、面倒くささが先に立ってしまい、実行に移したことはない。
 一部分だけ読むというのがなんだかもったいない気がして、いつもボーイング747の機内から、混乱の電話ボックスまでを丹念に辿る。始まりにも終わりにも雨が降っている。
 今回は、サイアムセンターのスターバックスや、家の近くのホテル内にある小洒落たカフェや(よく冷えたシンハの生ビールを飲みながら)、家のベッドに転がって扇風機の風を受けながら、3日ほどかけて読んだ。
 読む度に新たな発見があり、そして感情移入をする人物が移ろってゆく。長いこと僕は「僕」の気持ちに立って直子が好きだった。大学生活の後半頃から、それは徐々に緑へと移っていった。
 でも、今回は劇的だった。「僕」が直子を本当に愛していたかどうかが、疑わしくなってきたのだ。これまでの長い間の前提が、音を立てて揺らいだ。津波が襲うように、逃れたいけれどどうしようもない圧倒的な感情として迫ってきた。「僕」は直子を愛していると思っていたに過ぎないのではないだろうか、と。でも「僕」はそこの乖離に気付くことはない。乖離が存在していることさえ知らない。
 今の僕なら、それは「僕」の幼さに帰着させることができてしまう。
 そして僕は、揺るぎない愛について考える。僕自身の。


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