やめられなくて

 採り込むアルコールの源はそのほとんどがビール。たまにジントニック。ビールの中では、シンハゴールドをよく飲む。シンハやチャーンだと、重すぎて毎日はつらい。一缶が5バーツほど高いハイネケンは贅沢の一環だと捉えて、外で飲むときによく選択する。
 この土地の空気に包まれていると、度数の高い酒をストレートで飲むことへの欲求がそもそもわかない。鍋焼きうどんを食べたいと思わないのと理由は同じことだ。
 だから、今も冷蔵庫には缶ビールは10本ほど冷えているが(と言うか、冷蔵庫の中にはビールとヨーグルトと水とライムしかない)、それ以外の酒瓶はない。
 でも、ごくごく希にウィスキーの香りが懐かしくなることがある。今夜がそうだ。体調が悪いから早く眠るつもりだったのに、ベッドにつくときに「国境の南、太陽の西」を手にしたのがそもそも間違いだった。最近の村上春樹回帰の一環で、最後に残ったのがこれだった。別段、好みの部類に入るものではないのだが、眠る前に活字に触れておくというのは確固たる習慣として確立されてしまっている。
 三分の一ほどを読んでからサイドテーブルに本を置き、眼鏡を外して枕元の明かりを消して目を閉じた。でも、眠れない。先ほどまでは、目を閉じればすぐにでも深く眠れそうなくらいに感じていたにも関わらず、ほんの二、三十分ほどの読書が眠気をどこかへ消し去ってしまった。
 これまではさほど印象に残らなかった文章に触発されて、いくつか思うことがある。そのかすかな、言葉になる以前の段階にある感情を核にして、次から次へと浮かぶイメージがある。それらは、頭の中で自分たちが纏うべき言葉を探し始める。泉の底から掬い出された言葉は、イメージをより具体化する。そしてそこから続く言葉を求める。
 自分なりに辿る作中の人物の思い、そこから投射させた自分の有り様。あるいは実在の人物の姿だったり、僕が過去に発した言葉だったりする。
 この連環は、そう簡単に消えていきそうにない。よくあることだし、週末の夜だからあまり気にしないで再び部屋の電気をつける。
 身体は生(き)のままのウィスキーの香りを欲している。しかもめずらしくバーボンの香りだ。飲み込んだ後に鼻に柔らかく立ちのぼる甘い香り。バーボンが数多く並ぶ、梅田から少し歩いた所にあるバーの薄暗い店内すら映像として甦る。
 すごく飲みたい。でも、部屋にはない。こんな時にビールは全くふさわしくない。真夜中を過ぎて外に出るのも億劫だ。何より、今日の午後に喉の痛みを診察した医者から「酒はしばらく飲まないこと」と指示されている身でもある。
 以前、新聞で見た、アルコール中毒にかかりやすい人を見分ける質問というのを友達どうしでやったことがある。はっきりとは覚えていないけれど、「酒で問題を起こしたことがある」「今日はやめようと思っても飲んでしまうことがある」「禁酒を試みたことがある」などのいくつかの質問が並んでいた。その場に居合わせた全員、いずれかに該当した。複数回手を挙げる者も少なくなかった。その記事には「一つでも該当すれば、それは危険な傾向です」というような、診断なんだかオチなんだか良く分からない結論があった。
 適度の酔いがもたらす心の緩み方とか心地の良さは好きだし、浴びるように飲む(飲まざるを得ない)時だってある。でも、希望的観測に過ぎないけれど、先ほどの質問に思い当たる節があるにせよ、まあまあ問題はそんなにはないと思う。
 結局、ミネラルウォーターを一口飲んでから、また本を開いた。活字中毒であることには残念ながら疑いがない。


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