村上春樹の集大成とも言える「海辺のカフカ」の一度目を終えて、僕はメタファーについてこれまでより少しだけはっきり考える。何かが別の何かを、直截にではなく、多少のあるいは複雑な次元の転換を経た後に現すこと。あらゆる事象をそのように捉えてみることは、頭脳のゲームでもあり、同時に一つの生活信条として認識することも可能である。
ほんの一月ちょっと前に、友達からリチャード・バックの「イリュージョン」を教えられた。短い間に三度ばかり読み返した。その後で、同じ作者の手による「かもめのジョナサン」を読んだ。多分これも三度目ではないかと思う。高校生、大学時代前半ではどうとも思わなかったけれど、今回はとてもおもしろく読んだ。
「イリュージョン」の翻訳は村上龍、「かもめのジョナサン」は五木寛之。僕は書かれた当時の時代背景はよく知らないけれど、「解説」にある二人の原作に対する態度の違いが興味深かった。そして僕は村上龍は好きで、五木寛之は確かに一時代は彩ったかもしれないけれど普遍性は持たない作家だと思っている。
標語や掛け声と同じく、単純な言葉を旗印にして、そこにすがって生きていくことはみっともないだけでなく、不適切な意味を含むことの方が多い。「世界はメタファーだ」というのだって同じことだ。だけども、僕はそこに立って考えることを好む傾向がある。生き方と言えるほど僕はまだ何も成し得ていないけれど、取り巻く世界が自分によりスムーズに寄り添うようにするために、有用な時もある。個人的な範囲においては。
ただ、それが対他者の視点に応用できるかどうかは僕にはまだよく分からない。役に立ったことはほとんどないような気もする。大体において間違っていたような気すらする。もしかしたら誤りをメタファーに還元させたいだけなのかもしれない。でも経験的に知っているのは、他者との関わりを、ただ自分にとって、ある程度であれ、好意的な方向で解釈し、次の一歩を踏み出す参考になるという程度である。拠り所がないと判断すらできない。
「海辺のカフカ」に、イェーツが引用されていた。そして、僕は即座に大江健三郎の「燃えあがる緑の木」を思い出した。確か、バンコクに来る前後に読み始め、8月の中頃くらいに読み終えた本だ。作品そのものは、読み返そうと感じるものではなかったが、そこにはしばしばイェーツの詩が大きな意味を持って登場していた。
このつながりが導く意味として、非常に短絡的ではあるが、僕はイェーツを読もうと思っている。少なくとも、小説から得たことを次に読む詩の選択に用いることは、他者と関わる現実生活にはあまり害はなさない。
「深夜特急」を読んだ、旅をした、そして今はバンコクで暮らしている。結果論的に振り返ってみると、それぞれの連環には、その次を指し示すメタファーが確かに存在していた気もする。
久しぶりに自分を考えることのできる時間が多くある。その分、苦しくて孤独でどこにも抜け出すことのできない暗闇が否応なく濃く迫る時もある。死について思いを巡らせるのも、学生時代の一人旅の時代以来だ。
「タイ」という言葉の原意は「自由」であると習った。手元のタイ英辞書を引いてみても、第一義に「free」とあり、地名や国としてのタイは二番目に挙げられている。
僕は一冊の本により旅を始め、そして今は自由の国にいる。これをメタファーとして、自分の現在位置にプラスの意味を見出すことは正しいのだろうか。