日常の再発見

 登校途中、パヤタイ通りを赤と青のトゥクトゥクが走っていく。道端でおじさんが焼いていた焼きおにぎりのようなお菓子を朝食代わりにつまみながら僕はその情景を目に映している。
 自分の中でそれを文章にして、客観してみる。「目の前をトゥクトゥクが走る。名も知らぬ食べ物を美味しいと思いながら食べている」「ああ、僕はバンコクにいるんだ」 感慨と幸福が背筋を走る。
 同じ日の晩、日本から遊びに来る友達を迎えにドンムアン空港に出る。週末はそいつとトコトン飲むつもりなので、今の内にと到着までの間も利用して、バーガーキングでエスプレッソを一杯だけ頼み、宿題を広げる。バーレーン行きガルフエアーの最終案内がアナウンスされた。ふと顔を上げると、サリーを着た女性の一群がいる。ここはバンコク国際空港なのだ。
 翌日、やって来た友達とチャオプラヤエクスプレスに乗った。チャオプラヤ川を目の当たりにするのは、住むようになって実に始めてのことだった。BTSが接続しているタクシン橋駅も、行ったことがなかった。川を渡る風は、なんとも言えないバンコクの空気を涼やかに運んでいた。泥色の水の上を、船は快適に走る。週末にでも、ビールを片手に川の上で過ごすのはこの上なく気持ちよさそうだ。暇つぶしは何もスターバックスだけじゃない。
 日常に埋もれていたそれらを再び取り出し、埃をはらってもう一度視点を元に戻して眺めてみる。慣れは多くのことを簡便に流してくれるけれど、たまに立ち止まってみると、改めてそして新たに見えてくるものがある。
 大学時代の一時期、「日常の再発見」をキーワードにしていたことがある。予め断っておくけれど、僕のオリジナルではない。当時携わっていた学内生活情報誌を編集するサークルの会議の場で、誰かが言ったものだ。
 僕らが責任編集する年を迎え、方針をどうするか何ヶ月かにわたって話し合いが続いていた。読者に何を伝えるのか、僕らには何ができるのか。たった7人の人間だったけれど、真剣に白熱して様々な意見がぶつかりあった。漠然とではあるけれど各人の考え方が一つの方向に集約され、コンセンサスが形成されつつあったとき、ふと誰かが「それって日常の再発見ってことちゃうの」と口にした。それが僕らの結論であり、スタートだった。その後、新入編集委員も交えて始まった企画会議では、常に頭にはこの言葉があった。そこには僕らの思考の展開も、そのために費やされた時間も、何もかもが醸造されてぎっしりと詰まっていた。
 もう7、8年も前のことだ。だけれどもバンコクでの生活が半年を過ぎた今、僕は再びこいつを頭の隅に常駐させている。
 見慣れたように思ったものの価値、それを日常的に目の前にすることができる自分の今の有り様。異邦人としてバンコクを味わっていた快感を、生活の中に再び注ぎ込む。難しいことではない。昨日までと同じ物を、ほんの少し首をかしげて見直してみればよい。
 あるいは、食べたことない食事を食べてみる、行ったことのない場所へ行ってみる。知りたいことはその場で聞いてみる。なぜならそれらは未知だから。バックパッカーの興味のエネルギーの源泉に、再び水をたたえる。
 絵葉書の書き出しはこうだ。「僕は今、タイの首都のバンコクにいます」


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