この花を

 そう言えば実家では、家族の誕生日には年齢の数だけ赤いバラを飾る習慣があった。子どもの頃は、重ねる年齢と、一本ずつ増えるバラがうれしかったのを覚えている。ただし、親の誕生日には「一の位の数に合わせて」だったけれど。
 この国で迎えた2月14日は、主に男性から女性への贈り物は花束だった。女性の多い文学部では、必然的にたくさんの花を目にした。キャンパスの木陰のベンチで、花束を抱えて人待ち顔の男子学生も見かけた。
 はっとするような美人が、真っ赤なバラを一輪だけ手にして校舎の前を歩いていた。誰が彼女にプレゼントしたのか知らないけれど、まったく無関係の第三者としてもその情景に憧れを感じた。
 贈り物としてのバラに価値を持たせるには、二つのケースがある。
 ただの一輪だけを渡す場合。つぼみでもいけない、完全に咲ききっていたら品がない。相手が受け取って数時間後に、それは帰宅して一輪挿しに活けてそしてほっと一息ついてそちらを見やったまさにその瞬間に、最大限の美しさを発揮するタイミングの花を選ぶべきだ。
 この場合、花の色はピンクや黄色では味気ない。濃い赤でなければならない。渡す際には、取り立ててリボンや色紙で飾ってはいけない。透明のセロファンでごくあっさりとくるむだけにとどめる。
 さもなくば、数え切れないバラの花の束を。無数の花びらの向こうに驚く顔を想像しながら。
 相手の家に、ふさわしいだけの花瓶があるかどうかを考えるのは無意味な杞憂。部屋に飾ってもらえるなら、空いている酒瓶でも、もしくはペットボトルさえでもよい。もしくは花びらを浴槽に浮かべようが、あるいはむしゃむしゃと咀嚼されようが構わない。さらには、受け取った次の瞬間に路上に放り投げられ、自動車のタイヤがそれを轢いてしまうことになったとしても。
 いずれにせよ、ほとんど全ての意味はその瞬時性にある。
 ささやかに個人的に有する傾向の一つとして、花を贈ることが好きだ。実際のところ、ごく稀なことではあるが、非日常かつ重要性を持つ何かの折りにその時々の思いを込めて。
 実は僕も2月14日に一輪のバラを買った。その数日前の深夜にガラスで手を深くざっくりと切ってしまい、同じマンションに住む友人を電話で叩き起こして消毒薬やガーゼを借りたそのお礼の気持ちの表明に。何かしようと考えていたが、たまたまタイミングが合ったからであって、深い意味ではない。
 一輪だけにした理由は値段に他ならない。普段なら花束を買える額なのに、商魂たくましいこの国では、一斉に値上げされていて、とてもじゃないけど束にはできなかったから。


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