タイ語で歌う風

 タイ語で書かれた小説を一冊買った。その冒頭を直訳してみる。
 「いかなる完璧な文章も存在しない。失意やどん底の絶望があり得ないように」
 何よりも僕のタイ語能力の問題があるし、手許の辞書はタイ日ではなくタイ英だし、僕が原文に馴染んでいるし、というように何重ものバイアスがあるのだが、雰囲気としては大体こんな感じになる。
 「歌い知らしめる風を聴け」という題のこの小説、タイ文字で書かれた作者名は「はーるーき・むーらーかーみ」と読める。もちろんオリジナルは村上春樹のデビュー作「風の歌を聴け」。訳者は「ノップドン・ウェーチャサワット(恐らくこういう読み方だろう)」という人。
 週末の夜(と言っても、結局近所のモスクから朝一番のアザーンが聞こえるまで)だらりだらりと一緒に酒を飲んでいた友達から「紀伊国屋で村上春樹の『ピンボール』っていうのがタイ語で出てたけど、どういう本?」と訊ねられた。簡単に説明して、「風の歌を聴け」と「1973年のピンボール」を貸した。
 翌日に僕も紀伊国屋へ出向いた。実際には「1973、ピンボール」という題であったが、他に「風の歌を聴け」と「羊をめぐる冒険」の翻訳も洒落た装丁で並んでいた。いずれも入り口すぐの目立つ棚に積まれていた。村上春樹の著作が世界各国で翻訳されているのは知っていたが、タイ語のものは初めて見た。
 実のところ、我が家の書棚で放ったらかしになっているタイ語の本が既に2冊ある。こちらの学生に「タイ人なら誰でも知ってる昔話」として推薦してもらった一冊と、あまりの人気のゆえに発売直後はしばらく入手できなかったプミポン王による飼い犬の物語とである。タイ語の学習とタイ社会を知るという二つの目的からだ。
 原書を読むためにその言葉を学ぶ、というのは分かりやすい。例え、現在では誰も話していない言葉であったとしても。源氏物語を理解するための平安日本語、哲学の原典を探るためにラテン語、旧約聖書を読み解くためには古代ヘブライ語。だけど、そもそもが現代日本語で書かれており、僕はその言葉を母語としているにも関わらず、タイ語の翻訳をわざわざ読むという行為はどう説明したものだろうか。
 言葉は目的か手段かと考えると、個人的にはかなりの割合で前者である。現に今のタイ語も仕事で必要だとか、誰かと話しをするためなどが主目的ではない。単に、タイが好きでタイ語が好きだからだ。結果的に会話をしたり、コミュニケートの手段として使用されることもあるが(当然ながら暮らしているとそういう環境に置かれる)、どちらかと言うと辞書を引いて文章を理解してというところが好きだ。
 今のところの僕の能力は、じっくり時間をかけてなんとか新聞の社説に手が届こうかという程度である。日本語の小説を読んで言霊に背中が震えるあの感覚ををタイ語でも、というのにはほど遠い。だけど、各々の語句が意味を持った一本の線としてつながった瞬間に頭の中を走る快感は確かに存在する。言霊の子どもくらいは見えているのかもしれない。
 だがしかし、タイ語の「風の歌を聴け」を読むという行為は、そこからすらも外れてしまう。にも関わらず、この本に対する興味の大きさは並みではない。「タイ語だとこんな表現になるのか」という発見への予感が、言いようもなく楽しみである。結果的にはそれが学習につながるかもしれない。でもそれもあくまで付随的な話しとして。

参考までに、引用した冒頭の原文は以下の通り。「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。」 どうでもよいけど、この生原稿を京都の丸善で見たことがある。フェルトペンで書かれたような太字で、意外にもどっしりした大きな字だった。

 


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