バナナ・バナナ

 上級2のコースの主眼の一つに「ことわざ、比喩表現の理解」があった。文化や生活習慣と密接に関わっているこの手の言葉は、眺めているだけでもおもしろい。
 中には日本語とほとんど同じものもある。「両刃の剣」なんて、言い方も意味もそのままだし、「(川の)水が満ちれば魚が蟻を食べ、水が涸れれば蟻が魚を食べる」というのは、それぞれに好機があるということで、「待てば海路の日和あり」に通じる。
 また、日本語の発想ではあり得ないものもある。「パクチー(コリアンダー)を表面に散らす」というのは、「表だけを取り繕うこと」。「ムエタイ(タイ式キックボクシング)、倒れる」は「八百長」。「金の枝、翡翠の葉」は「似合いの男女」。スコータイ時代のラームカムヘン大王の治世における、タイの繁栄を謳った「水には魚が、田には稲が」という言葉も、今ではことわざの一つである。どちらかと言うと、このようなタイ語ならではの物の方が外国人にとっては楽しい。
 タイ語のことわざには、象や虎が出てくる。いくつか列挙してみよう。

「食っちゃ寝の虎」 → 自分は労力を割かず、利だけ持って行こうとする人
「空腹の虎」 → 物、金、人、地位など何でも欲しがる人
「虎に対して気持ちを整える」 → 恐ろしい状況にあって、平静を保つ
「象に乗ってバッタを捕まえる」 → かけた分に見合うだけの結果が得られない
「象を見るときは尻尾を、
 女性を見るときはその母親を見よ」
 → 尻尾の色でその象が白象かどうか分かる(白象はよい存在)。
女性なら、母親で判断できる。
「糞をする象を見て、自分も糞をする」 → 金持ちでもないのに、そのように振る舞う

 比喩の決まり文句もある。「茹で鶏のように青白い(顔色)」、「ネズミの巣のように散らかっている」「(闘鶏で)目の潰れた鶏のように、何も分からない」などなど。「透明」であることを例えるには、例えられる物によって言葉を使い分ける。「ガラスのように透明」は水の様子、「草の露のように透明」は人の性格、「バッタの目のように透明」は熟成された酒をそれぞれ表す。
 氷室冴子の小説に「海が聞こえる」というものがあった。アニメ化もされていた。高知を舞台にした、卒業を控えた高校生たちの青春群像だったように記憶している。でも、タイ人に「海が呼んでる」と言われたら、恋も青春もあったものではなく、決して喜ぶべき状況ではない。
 これの元には、「塩のようにしょっぱい」という言い回しがあり、ここでは味覚そのものを示すのではなくて、性格が味覚に例えられている(ご参考:「あなたのお味は? 」)。塩味で例えられる性格は「ケチ」。と言うことはつまり「海が呼んでる」は、「あなたみたいなケチな人は海水にでも漬かってれば」という、辛辣な皮肉になる。
 習った中で僕が一番好きなのは、「簡単」を表す「バナナをむいて口に放り込むくらいに」という比喩。ここから転じて、昨今では「その話、バナナ・バナナだね」という表現が使われる。すごく可愛い。


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