「戦火と混迷の日々」

 近藤紘一。その名前と、著作の題名くらいは目にしたことがあるが、これまで一度も手に取ることがなかった。今さらながらに、何でこれまで読まなかったのだろうと半ば悔やみつつも、「戦火と混迷の日々」のページを繰っている。
 ポルポト時代のカンボジアを生きた日本人、内藤泰子の手記のタイ語訳が、授業の課題としてどさっと渡された。「こんな日本人がいるけれど、知っていますか?」と問われて、僕の返答はあっさりと否であった。知識がなかったことを自身に恥じる気持ちよりも、渡された紙束の分厚さへの驚きの方が大きかった。実際のところ、彼女の日記が元になっているので、文章はかなり平易で理解し易かった。ただし、その内容は僕がここで簡単に紹介するようなものではない。
 その翌日、クラスメートの一人が「こんな本あるで」と教室に持ってきてくれたのが「戦火と混迷の日々」であった。これは副題に「悲劇のインドシナ」とあるように、内藤泰子への取材に基づきながら、サンケイ新聞記者であった近藤がインドシナ情勢をルポした作品である。
 「見して、見して」と、最初の数ページをめくったが、久しぶりに血の濃い文章に出会った興奮がまずあった。そしてその文庫本を借りた。
 96年の夏に僕が初めて東南アジアを旅したとき、タイとカンボジアの陸路国境は閉鎖されていた。ポルポト本人も存命であり、「国境周辺にはポルポト派の残党がおり、危険だ」というのが旅人の間の認識だった。その2年後の夏に、「カンボジアとタイの国境を通って来た」という人とバンコクで出会って、僕には軽い驚きだったことを覚えている。
 そのアランヤプラテートとポイペットとを結ぶ国境は、現在はアンコールワットへの安上がりなルートでもあり、観光ヴィザの切り替えだけでタイへの滞在を続ける人たちにとっては、日帰りでスタンプを更新できるバンコクから最も近いお手軽な国境ともなっている。カンボジア側にはカジノが建てられ、タイ人にとっては娯楽の、カンボジア人にとっては稼ぎの場所でもある。(子どもの労働や人身売買などもこの周辺の現在のトピックである)
 僕が生まれたのは1975年。クメールルージュもボートピープルもラオス人民革命も、あるいはヴェトナム戦争でさえ実感の外にある。確かに、プノンペンではキリングフィールドもトゥールスレーン博物館も訪れた。だけど、遠くはないけれど、近くもない世界史上の出来事としてしか目に映らなかった。アジアを旅する中で、ただ漠然とそういう時代の存在を受け取っていたに過ぎない。
 この本を読み進める中で、その内容も当然ながら、「久々に興味を持つ文章を書く人に出会った」という興奮も大きい。まずは、近藤紘一の文章を読みたいという欲求を出発点に、そしてもう一つはインドシナ情勢の中で少なからぬ役割を果たしてきたタイに自身があるという状況もあって、しばし現代アジア史と向かい合ってみたい。


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