あやかしの夜
日暮れまでにはもう1、2時間ある頃合い。スターバックスで根を詰めていたのだが、詰まりすぎてしまったので、場所を移して気分転換することを考える。別のスタバに行ってもいいのだが、今日の後半やるべきことは、テキストをひたすら読めばよいという類なので、別に机は必要じゃない。ふと思い浮かび、チャオプラヤ川の上で続けることにする。
BTSで終点のタクシン橋駅まで出て、直結している船着き場で北向きのチャオプラヤエキスプレスを待つ。いいタイミングで快速がやってきた。10バーツの料金を支払って、終点を目指す。席が空くまでしばらくは、両岸の景色を眺め、水音を心地よく聞く。
座ってテキストを開いた後は、そちらに集中。たまに顔を上げると、大きな建物が姿を消し、緑が風景に多く含まれている。中心部から次第に遠ざかりつつ、船は夕方のチャオプラヤ川を北上する。
乗客が揃って降りる気配に気付き、終点が近いことを知る。そのまま逆向きの船に乗って戻るつもりにしていた。太陽はまだ沈みきっていないので、もう少し船上で文字を追うことができそうだ。だが、僕の到着は、最終便と入れ違いになってしまっていた。
やれやれである。何も考えずに往復だけしようと思っていたのだが、結果的に初めての土地に降りてしまった。ノンタブリーという地名は聞いたことがあるものの、具体的なことはさっぱり分からない。船着き場すぐに客待ちをしてる中に、人力サムローがいたことに軽く驚く。バンコクじゃないのか。
頭上を見上げると、暗くなり始めた空に飛行機が鋭い角度で飛び上がっていた。幸い空港近辺のようであることは分かった。
しようがない、タクシーを拾って「BTSのモーチット駅まで」と伝える。
日は既にとっぷりと暮れてしまった。周りの風景は見知らぬものだ。タクシーの運転手は、先ほどまでのFMラジオのニュースを切り替え、演歌のような歌のカセットを再生した。ニュースはなんとか聞き取れていたが、こちらはさっぱり分からない。交通標識の表示を見ても、馴染みのない地名が続く。
つい数時間前まで、ごくありきたりの日常を送っていたのに、ふいに非日常の穴に放り込まれた。これが旅の過程であるならば、それを楽しみにして、そしてある程度の心づもりをした上で臨めるのだが、何も考えていなかったところにこれだけ唐突に舞台が暗転すると、むしろ寂寞や、さらには恐怖心すら心に浮かぶ。こんなはずではなかったのだ。
東の空低くに月が霞んでいる。でも、不思議なことに霞んでいる月の情景そのものは、くっきりと冴えている。何かがずれている。
ここ数日風邪気味だったということもあり、そして今日はコンタクトレンズを入れた右目がどうも調子悪かったということもあり、肉体的なマイナス要素の前提も確かに存在する。だけど、それ以上に、予想外に突然に層のずれた世界に落ち込んだという感覚が、精神の有り様に少なからぬ影響を与えた。正直なところ、車中で言いようもなく怖かった。
多少は見慣れた道路に出て、目的地で下車。それでも乗り慣れているはずのBTSが、妙によそよそしく、いつもはありがたい効き過ぎた冷房も、むしろ心の震えに身体を同調させるが如くに働く。
その心の中に浮かんでいたのが、子ども時分の晩秋の川の土手のイメージだった。時間帯は夜。真っ暗な中を、冷たい風が吹き付ける。一つの季節を通じて得るはずだった心の震えの総量が、一時に胸をわしづかみにした。
呼吸しているのはバンコクの空気ではなく、何かの残照のような存在に思えて仕方ない。何の故もないのだが。
帰宅してカレンダーを見ると、今日は満月の日だった。
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