夜間飛行

 夜中に、ふと誰かに手紙を書きたくなる時がある。誰、という当てがあるわけではない。誰かに、である。
 地上20階、深夜のバンコク。赤く明滅するビルの航空障害灯のいくつかは眼下にある。夕食時に降り始めた強い雨は既に止んでいる。夜空を照らす稲妻は、よほど離れた場所で光っているのか、雷鳴を伴わず、ただ数十秒毎に辺りを昼のように照らすだけである。
 公園裏通り、という意味を持つランスワン通り。イタリア料理やフランス料理のレストランが建ち並ぶ小洒落た通りである。その中程の豪奢なマンションの最上階。新居、とは言え、僕の家ではない。生活費を浮かすために、人の好い友人に無理を言って居候。
 窓からは時折涼しい風が吹き込んでくる。今日の昼間、掃除にやってきたメイドが話していた通り、とても静かだ。カーテンを全開にし、雷を見物しながら冷えたシンハゴールドビールを飲む。
 既に友人は寝室で休んでいる。僕も眠ろうとしたけど、ここ最近の怠惰な生活リズムのせいでまったく眠気が起こらない。
 手紙を書きたいな、と思う。
 「暫定的に新しいマンションに越して来ました。友人の好意に頼って、しばしの居候。雨季らしく、今夜は大雨でした。その煽りと思われる停電が30分近く続きました。昨日まで住んでいた部屋も決して悪くはなかったのですが、それでもここは同じバンコクかと訝しく思うほどにとても静かです。また稲妻が光りました。雷雲は徐々に近づいているのかもしれません、今度はゴロゴロという音が少しだけ聞こえました。
 もう一本ビールを飲もうかどうか迷っています。実のところ、友人とさっきまでトーモアをストレートで飲み交わしていたので、それなりによい具合に血中アルコール濃度は高まっているのですが。
 明日は日曜です。何をしているわけではないけれど、やっぱり休日が来ると嬉しく思います。この1年は毎日が休日ではないかと言われたら、返す言葉もありませんが。」
 とりとめのない言葉は続く。時候の挨拶もなければ、結びの言葉もないままに。便箋を折りたたみ封をする。だけど、近況を認めたこの手紙には、宛先がない。国内便なのか、あるいは海の向こうへ飛んで行くのかすら。
 明確な行き先を持たない思いと言葉が、ただ浮かんでは消え、浮かんでは消え。だけど消える前の一瞬にそれを掴まえておきたいという欲求が存在する。
 夜空がまた刹那に白く輝く。一面のガラス窓から俯瞰する夜景は、空を飛んでいるように錯覚させる。どこに、という当てがあるわけではない。だが、僕は滑空を続け、そして言葉は尽きない。誰、という当てがあるわけではない。誰かに。


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