猫を一匹

 雨の降らない7月のバンコク、というのは形容矛盾と捉えてよいのだろうか。
 昨年との比較でしかないけれど、この時期は毎日のように激しいスコールに見舞われていたはずだ。だけど、ここ1週間ほど、ほとんどまったく雨が降らない。空は薄い灰色だったり、あるいは夕方になってどす黒い雲が俄に高密度で頭上を覆ったりすることもあるのだが、基本的には少しだけ白みがかった水色の空に、切れ切れにくっきりと真っ白な雲が流れる日々だ。たまに、予兆のようにしとしとと雨滴が細長く落ちてくるが、本番への期待をかき立てるだけであっと言う間に消え去ってしまう。むしろ全く降らないよりも、余計にたちが悪い。
 人に聞いてみても「昔と比べると天候が変わってきている」と言う。異常気象というのは、まあ、タイに限った話しでもないだろうが。つい先日、7月の下旬でまだ梅雨の明けない東京の友人から、長袖一枚だと肌寒いというメールを受け取った。地球上では、逆にかつてない大雨に見舞われている地域だってある。
 天気が精神状態に与える影響は小さくない。だが、それは自身の都合やその時の状況と組合わさることで意味の方向性が決定される。例えば、スーツを着てネクタイを締めて革靴を履いて外出しなければならない日と、買ったばかりの本と熱いコーヒーとよく磨かれた窓のある部屋で過ごす日とでは、正反対の価値を持つ。ぼんやり目覚めた隣に温かい存在があって、カーテンの向こうからは静かな雨音が聞こえてくる休日の朝なんていうのは最高だ。
 だが、雨季のバンコクの雨というやつはしかし、そういう価値判断をもたらす前提条件すら認めないほどに激しく降る。傘なんて端から役に立たない(それでもどうした理由からか、ビニール袋を頭に被って雨の中を行く人をよく見かける)。移動の必要があってタクシーに乗り込んでも、渋滞でさっぱり進まない。学食で昼食を食べている間に降り始めると、わずか数十メートルの校舎までの道のりも、「ちょっと濡れるけれど……」という思い切りだけではなかなか足を踏み出す気になれない。
 日本だと嵐と名付けても語弊がないような、大都会のシステムなんか歯牙にもかけないほどの激しさで、自然はこの土地に雨をもたらす。暴風や、地を揺るがす雷鳴が趣を添えることもままある。たまに僕は高層ビル群の向こうに、さほど遠くない過去はそうであっただろう、荒れ狂う熱帯雨林のイメージを重ねることを試みる。
 だがしかし、1時間もすれば先ほどまでのその黙示録的な状況も、文字通りに嘘だったんじゃないかと思いたくなるほどにあっさりと姿を消す。ラッパを吹いた天使は何処へ行ったんだ?という具合に。激しさも唐突さもひっくるめて、始まりから終わりまでの一連のこの自然現象は、とにかくあらゆる事物をきれいさっぱりどこかに持ち去っていってくれるようで、僕にとっては新鮮な精神状況を取り戻させる効果を持っている。
 タイの東北地方には、「猫を檻に入れて練り歩き、そこに水を掛ける」という伝統的な雨乞いの行事がある。閉じこめられた上にびしょ濡れになる猫には申し訳ないが、光景としては微笑ましい。  


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