お茶にお花にタイ文字を

 自分の好きなものを他者も気に入ってくれると嬉しいものだ。BTSの車内で日本人観光客らしき人が「タイっておもしろいね」と話しているのを傍で耳にするだけで、僕にとっては外国でありその人たちとの面識はまったくないにも関わらず、思わず頬が緩んでしまう。
 日本から遊びに来た知り合いがタイを楽しんで、「また来るよ」と言ってくれる。実際、この1年と少々という短い期間に、複数回訪れた友達が複数人いる。日本にいたときに顔を会わせていたよりも頻度が高い。こう書いている現在でも、大学時代の友人が二人ばかり「来月遊びに行く」というメールを寄越しているところだ。しかもその二人とも既に三度目の来タイになる。わざわざ僕に会うためだけに休暇をとって飛行機に乗ってやって来はしまい。料理でもダイビングでも遺跡でも買い物でも果物でも酒でも何であれ、タイを気に入ったことが再訪の大きな理由になっている。
 そんな中、さらに嬉しいことがあった。最近、友達の二人がタイ語の学習を始めたと言う。一人は大学の後輩。既に二度、駆け足で遊びに来た。もう一人はサイトを通じて知り合った方。来タイの経験もなく、予定すらないのだが、一緒に学んでいる。教えるのは、チュラ大で机を並べていた友人。今は早稲田の大学院でアジア関係の研究に就いている。
 縁というのは誠におもしろいもので、それぞれはまったく面識がなかったどころか、ネットで知り合った方とは僕も数週間前の東京が初対面であったにも関わらず、その際に「タイ文字可愛い」という話題を発端に場が盛り上がり、トントン拍子で話しが決まった。実際問題、どうなるのだろう、酒席だけでのことだろうかと思っていたら、先日第一回目のレッスンが行われたとのこと。
 タイ文字はくるくると丸っこくて可愛らしい。子音字の一覧表というのがあって、日本にいた頃からずっと部屋の壁に貼っている。44のくるくるした子音字が、その文字を用いる名詞の南国らしい賑やかな色彩で描かれた絵と共に並んでいる。どういうことかと言うと、例えば50音表があって「朝日のあ」と共に、朝日の絵が描かれているようなものだ。それぞれの文字に当てる名詞は決まっていて、「鶏・卵・瓶・水牛」と始まり、最後は「たらい・梟」で終わる。中には「象」「少年僧」などや「兵士」なんていうのもある。
 大学生だった頃の僕は、会話の初歩はYWCAにあった教室に通っていたのだが、文字はテキストを一冊選んで独習した。卒論の時期に重なっていたように記憶しているが、大体1ヶ月ほどで、なんとか形になった。
 つい最近読めるようになったばかりというバンコクの知り合いが語ってくれた。こちらにいらしたご両親を案内しながら、街で見かける字を喜々として読んでいたら、「まるで文字を覚えたての子どものときのようだ」と言われたそうだ。子どもの頃って、自分で読めることが純粋に嬉しくて、新聞を開いてとりあえず平仮名だけ拾ってみたりした。あの感覚を再び味わうことができるのはずいぶんと贅沢な話しだろう。でも、その彼女も文字に取り掛かってまだ1ヶ月も経っていない。
 かなり無謀な話しなのだが、ここ最近、僕はとある日本人駐在員にタイ文字を教えている。週に一度、2時間。もちろん彼は平日には仕事があるが、これまでの時間にして10時間のレッスンで発音はほぼ拾えるようになっている(当然だけど、家でもかなり努力されている)。
 客観的な評価は難しいけれど、タイ文字の修得はさほどの困難ではないのではないか。僕が用いた「書いて覚えるタイ語の初歩(水野潔・中山玲子著/白水社)」の「まえがき」にはこうある。「(タイ文字の読み書きができるようになるのに)かかる時間は、日本語の文字や英語の文字を修得するのにかかる時間と比べても、はるかに少なくすむことは保証します。」
 タイの人口は約6000万人。英語やフランス語やスペイン語あるいは中国語などを操る人と比べたら物の数でもない。日本で使えそうな状況も、タイ料理屋のメニューを読むくらいしか思いつかない。いくら文字が読み書きできたところで、かなり特殊な方面の仕事に就かない限り、およそ実用性には乏しいと言って差し支えないだろう。
 でも東京の二人の友達にせよ、バンコクで暮らす僕にせよ、実用性はほとんど関係ない。「可愛い」「好き」という感情が発端であり、そこから生じた欲求を学習によって達成していくだけのこと。こういうのを、「語学」や「特技」と呼ぶのはふさわしくないと思う。そこにはどうしたって、実用性が付きまとうから。
 お見合いの席で「ご趣味は?」と訊かれたら返事はこうだ。
 「タイ文字を少々」

参考:超初心者のためのタイ語入門


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