スポーツ!

 そもそも運動というのがあまり好きでない。
 ただしそれは、身体を動かすことが嫌いだということを意味するわけではない。そこに何事が為すべき目標があり、そしてその目標が自分の趣味嗜好に合致している場合に、その達成の手段として肉体を普段以上に消費することは構わない。つまりそれは、汗だくになりながら浴槽を磨くことや、重い思いをして食料品を買い込んで来ることや、あるいはバックパックを背負って熱帯の太陽に曝されながら宿を探すために見知らぬ街を歩き回るというようなことである。ただ、身体を動かすために動かす、というのが苦手なのだ。
 必定、昔から体育が好きではなかったが、水泳の授業が特に嫌だった。水が口や鼻に入ることでの眉間のズンと重く鋭い痛み、身体を水シャワーだけで洗わなければならない不潔感、その後も続く授業での普段以上の疲労、傍らのバッグからは濡れたバスタオルや水着が放つ悪臭、水泳の授業に不随する諸々の何もかもが肌に合わなかった。ましてや、高校は男子校に通っていたのだ、おもしろかろうはずもない。
 それでも今と比べると子どもの頃は多少は素直だったから、気色の悪さに辟易しながらも授業に参加していたが、少し知恵が回るようになってくると防護策に出た。多少アレルギーの気があるのをよいことに、夏が始まる前に耳鼻科に出向き「アレルギー性鼻炎」という診断をもらって来る。そうすることで、確か中学校1年生のとき以来、一度も学校のプールには浸かっていない。
 あるいはそこには、泳ぎが得手ではないことも大きな理由として加えるべきかもしれない。まるっきりの金槌というわけでは決してないが、せいぜい沈まないという程度のものである。
 「スポーツは何かしてる?」と尋ねられることがある。とりあえずはダイビングであると答えることにしているが、これはただその場のおさまりの問題のためだけであり、実のところ僕が行っているようなのは、その範疇の外にあると思っている。
 大気と水との境界上を「泳ぐ」ことと違って、何十メートルかの水中を「潜る」というその根元的な在り様からして、水泳よりもしんどいものであると思われることがあるが、なんの、なんの。呼吸のための空気は確保されているし(ダイバーが背負っているタンクの中身は大抵の場合は酸素ではなく、あくまで高圧の空気である)、大きなマスクをかぶるからぱっちりと目を開けて景色をよく見ることができる。足ヒレを履くことで、一蹴りによって生み出される推進力は、より大きなものとなる。肺の容積で浮力を簡単に調整できるので、ただ息を吸ったり吐いたりするだけで、重力からも解放される。楽なことづくめである。
 ここ最近、ウィークエンドマーケットを半日歩いただけで脚の筋肉が妙にだるく疲労したり、あるいは腹周りが気になってきたりと、とみに運動不足を痛感することが立て続けに起こってきた。さすがに危機感を抱き、食事を制限するのと同時に、し慣れない運動を渋々ながら始めた。玄関の扉を開けて徒歩30秒。マンションの同じ階にある15メートル幅ほどの小さなプールに通うのだ。
 だが、そこで、人生で初めての経験が二つもあった。初日はとりあえず、休み休み20往復してきたのだが、これだけの距離を泳いだというのがまずこれまでなかったことだ。なぜそこまでしたかという理由が二つ目の初めて。それは、プールで泳ぐという行為に前向きな意味を発見したこと。
 「泳ぐ」の第一義は、沈まないために四肢を動かすのだと認識していたが、そうではなく、水と上手く一体化し、滑らかに身体を前に流すことでもあるのだと知った。身体は放っておいてもそれなりに浮くようになっている。じたばたせずとも、自分の両手が生み出した柔らかな波紋を追いかけてゆっくりと手足を掻くだけで、いやむしろその方がよりスムーズに、水を捉えることができた。
 いつも海の中で魚の自由な動きを見ては、「なんて美しい身体の運び方だ、さすがは魚だ」と嘆息していたのだが、あくまで瞬間ではあるものの、それと同じような感覚を自分の身体に得ることができた。水は敵対する存在ではなく、自分がそこにに含まれたという気がした。なんだ、これってすごく気持ちいいじゃないかと思った瞬間、泳ぎ続けたいという欲求が生じた。
 運動不足解消のためにというだけでは、僕は億劫がりなので、定期的に身体を動かす理由として不足するが、すいーっ・すいーっという水との一体化の快感が加われば十分な動機に成りうる。
 「sport」という語には「port(運ぶ)」が含まれており、語源に「仕事から人を遠ざける」という意味がある。これからは、「スポーツが大好きです」と胸を張って言うようにしよう。


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