蓮は咲くか

 生活に潤いを与える方策の一つとして、最近よく花を飾っている。明るい色を発する生きた存在によってがらりと変わる部屋の雰囲気が好きだ。日本と比較すると大概の物は安く手に入るが、花卉類というのはまた特別な値頃感がある。ちょっと高級な物を売るスーパーの軒先でも、蘭が一束80バーツ(約230円)。専門のパーククローン市場まで出れば、もっと安いはずだ。バラの花びらを一面に浮かせた浴槽というのだって、その気になれば自宅でできる。
 木曜日がチュラロンコーン大王記念日で祝日であった。昼過ぎにプラカノン市場へ。用事を済ませ、通りに出ようとしたところでたまたま目に入った小さな花屋の前で足が止まる。蓮のつぼみの束が、バケツに入って売られている。ほのかに緑が溶けた柔らかな白い色も、小振りなタマネギのようなその形状も愛らしい。セロファンや新聞紙ではなく、大きな蓮の葉でぐるりと包まれている。値段を尋ねると25バーツ(約70円)。思わず買い求める。
 帰宅して束を解いたときに気付いたのだが、全部で10本ある内のまっすぐな茎の1本を中心にして、その他は外側を向くように軽く曲がっており、それらが環状に配置されていた。水切りをしようとして直径1センチ少々の太さの茎をよく見ると、ぽこぽこと穴が開いている。考えてみればそれはその通りであるべきことだが、蓮根状の蓮の茎。
 陶製の細い花瓶に外周の9本だけを同じく円く活けて食卓に。まっすぐな一本は、茎を少しだけ残して切り取り、周囲の花びら3枚ばかりを内側に畳み込み、水を張ったガラス鉢に浮かす。雑貨屋で買った、植物の繊維で織られた茶色い台に乗せて、こちらは玄関の棚に飾る。ホテルなんかでよく見かけるやり方を真似てみた。
 これで気分を良くしていたのだが、一晩経つと外側の花びらが先の方から黒ずんできた。そこだけ剥いて生気を持った色を露わにさせたが、次の日になるとまた同じことだった。
 たまたま遊びに来た友人が「蓮は陽にあてた方がいいんやで」と助言してくれたので、日中はベランダに出してみた。だけど、やっぱり同じことの繰り返し。今日も干した洗濯物で陰らないような場所に置いていたのだが、変わらず。どうもあまりちゃんと水を吸い上げていないような感じがある。茎を少し短く切った上で、また花びらを数枚ずつ剥いたので、全体的にちょっと小さい印象になってしまった。
 蓮はよく仏教と関連して語られる花だ。線香などと共に、お詣りセットとしても欠かせない。大悟した仏陀が、その法を広めようとしたとき、理解へ到達する速さに応じて人を4種類に分類した。そしてそれぞれが例えられるのも、蓮の花。導師があれば直ちに教えを理解しうる人は、つぼみが水面より上に現れており、光があたれば直ちに花を咲かせられる段階。耳を傾け、思考し、訊ねることを続けてもよく学び得ない最終グループの人たちは、未だつぼみが泥の中にあり、亀や魚の餌になるより他ない状態とされる。
 枯れたら捨てればよいというのは切り花の利点であるのだが、咲くべき存在がそのままに生を終えてしまうのはもの悲しいし、申し訳ないような気もする。食わすべき亀や魚も見当たらない。仮に開花までもっていくのは難しいとしても、せめてもう少し日持ちさせられる方策が見つからないものかと思う。


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