どこにいる
普段は気配を感じなくても、うちには確かに僕以外の生き物が住んでいる。外出から戻ってドアを開けた瞬間、そいつは壁際を素早く走って物陰に隠れたり、夜更けの洗面台の下の棚から唐突に姿を現したりする。
全長10センチほどのヤモリの一種、タイ語でチンチョック、である。どこに巣くっているいるのか知らないけれど(知りたくないけれど)、ささやかな同居の相手。
実際のところ、家の中に限らずどこでも目にする。アジアの安宿の天井には、薄暗めの蛍光灯の明かりと、大きな羽の扇風機と、じっと貼り付くこいつが似合う。
インドネシア、ブキッラワン(一月ほど前に、鉄砲水で多くの命が失われた土地だ)の宿の扉にくっついていた白骨。ずっと以前に誰かが扉を閉めた時に身を挟まれてしまい絶命。肉が風化し、骨格だけが奇麗に残っていた。小さいけれど、そしてはっきりと死んでいるにも関わらず、それは生命力を漂わせていた。すぐ傍を滔々と流れる美しい川の情景と対照的で、夜、横になって目を閉じたときにその存在を思い出すと、体温がひゅっと下がる気がした。
別に人に対して悪さをするわけではない。どちらかと言うとむしろ臆病だ。蚊などを食べるので、その見た目にさえ慣れることができれば役に立つ動物である。夜の闇から、チョッ・チョッ・チョッと控えめに鳴き声を発する。タイではその鳴き声の数で購入する宝くじの番号を決める人もいる。家を出ようとする際に耳に入ると、不吉な予兆を察知して警告してくれているのだと捉えることもある。それほどまでに身近な存在である。
ソファーをよいしょとずらして、フローリングの床の埃をクイックルワイパーで集めている。あまりよく注意を払っていなかった視界の先に、ぴょこぴょこと動く小さなものがある。覗き込んで、反射的にのけぞった。2センチに満たないくらいの細長い薄灰色の物体がぴくぴく、くねくね。ずいぶん激しく動いている。チンチョックの切れた尻尾。
くねくねの横には、お尻のバランスを欠いた、まだ子どものチンチョックが一匹。床を掃いたときに、尻尾をちょん切ってしまったようだ。弱っているようで、逃げることもできないみたいだった。意外に可愛い存在ではあるのだが、そうは言っても爬虫類とか両生類とかが決して得意な方ではないので、なんとかそいつに手を触れないようにモップ部分に引っかけて廊下に出す。
数ヶ月の後、夜更かし気味の週末の夜。午前2時まであと少し。一人静かにモニタを覗く。視界の端を動く物がある。おそるおそる目だけを動かして見る。チンチョックが一匹、居間と寝室との間の白い壁に貼り付いていた。視線に気付いてか気付かずか、じっと動かない。ずんぐりした印象を与える。よく見ると普通よりも尻尾が短い。もしかして。
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