物語は語る

 宇治にのこれるをひろふと付たるにや。
 まとめて一つの固有名詞としてしか頭になかったが、序段でそのように説明されて初めてその題の由来を知った「宇治拾遺物語」。既存の宇治大納言物語に増補したり、後日談を加筆したりして成立した鎌倉時代の説話集。
 角川ソフィア文庫で日々少しずつ読んでいる。収められた196の話は、たまに出くわす長いものでも大抵は4ページ程度(しかも脚注のスペースがあるので、本文は普通の文庫本よりも短い)。BTSに乗っている10分程度の時間でも、いくつか進むことができる。序に言うように、「天竺の事も」「大唐の事も」「日本の事も」あり、その内には「たふとき事も」「をかしき事も」「おそろしき事も」「哀なる事も」「きたなき事も」、実に幅広く様々な物語がある。
 学生時代、古典は苦手科目だった。「いかにも趣のあることだ」なんて、訳にもなっていない現代語訳を眺めるのも、いかにもおもしろくはなかった。
 高校の授業ではっきりと覚えているのは、「『逢い見る』はつまり、一発やるってことです」という、高三のときに他校からやって来た、かなりユニークな教師の解説くらいだ。上品とは言い難いが、何せ男子高だったのだ。と言うよりも、高三当初段階でクラスのほとんどが、そんな基本単語すら知らなかったことの方をむしろ明らかにしておきたい。僕も、疑いなく「会って見る」と訳したのだ。
 誰もが暗記する助動詞の活用も、覚えようという努力すらしたことがない。試しにここで今「べし」に挑戦してみようと思って、こっそり「べから・べく・べかり・べし・べき・べかる・べけれ・マル」と声に出してみたものの、どこで区切ったらいいか分からない。活用の種類よりも数が多いから、どれかはグループになるのだろうけれど。そもそも已然形って何を表すのだったか……。試験もフィーリングで解答してばかりで、当然ながら成績はふるわない。
 長いことずっとそんなままだった。改めて触れることもなかった。
 その傾向が変わってきたのは、一昨年秋の「海辺のカフカ」以来だ。作中で語られた源氏物語に、今さらながら興味を覚えた。国文学を専攻した知り合いに、「現代語訳のおすすめ」として田辺聖子を挙げてもらった。
 胸を締め付ける恋愛物語として、人の死に様を描いた人生譚として、あるいは荒涼たる須磨の海や、あるいは靄の立ち込める後朝の都の風景が心に満ちた。それから、本当に少しずつではあるが、目を向け始めた。
 今の生活では、日本語の本の入手が比較的容易ではないため、たまの帰国時や、遊びに来る友達へのリクエストには、時間のかかる本というのが選択の大きな基準になっている。古典というのはそのいい例だ。
 ところが、手にしてみると、この宇治拾遺物語は思っていたよりも読みやすい。短い文章の内に、新奇な発想や意外な展開があり、物語としてぴしりと決まっている説話も多い。藁しべ長者の原型も納められているのだが、いったいどこの誰が一本の藁からお話しをふくらませることを思いついたのかと、感動を覚えた。また、それぞれの短さがゆえに、集中力を保ったまま一息に読み切ることができるのも助かる。
 ただ、せっかく付されている脚注は見たり見なかったり。大学に入って一人暮らしを始めたときに、一応はと思い教材で使っていたきれいなままの文法書を引っ越し荷物に入れていたけれど、結局再び開くこともないまま、いつの時にか処分してしまっている。手許には古語辞典すらない。
 調べることもしない、そもそもの素養は空っきし。なので、精読では決してない。分からないところはさっぱり捨て置いて、相変わらずフィーリングだけ。助動詞や終助詞などの細かいニュアンスはよく分かっていないと思う。それどころか、勝手に誤解して捉えている部分もあるだろう。
 それでも読み進む。次は何が登場するのだろうと一つが終わる度に心急かされる。改めて、物語の力は強い。


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