ひっそり閑と住む

 18歳の春に一人暮らしを始めてから、この10年間で8度目の引っ越し。一番長くても、京都の北白川に住んでいた約4年。バンコクに来てからは友達の家に居候したりもしながら、この2年弱で既に3回目の移動になる。
 喧噪、騒音、灼熱、人いきれ、高層ビル群……。こんなイメージのバンコクにあって、正対するような雰囲気の中に佇む小さなアパート。4階建ての建物が二つ、直角に配されている。僕が住んでいる棟には、二階以上にそれぞれ一部屋ずつしかない。つまり全部で3室。日本で言うところの1LDKに相当し(こちらで言う、ワンベッドルーム)、玄関すぐがリビングで、右手奥のカウンターを隔てて、大きくはないけれどキッチン。左側の廊下を進むと、扉で仕切られた左手にバスルーム、奥にベッドルーム。
 直角に建った二棟に囲まれて、緑の茂る庭がある。整然と手入れがされており、朝の7時前から、庭を掃くシャッシャッという音が、目覚めの耳に静かに届く。
 古い方の建物は1968年の築だと聞いたが、おそらくはその以前からこの場にあっただろう太い木が一本すっと立つ。幹には別の植物の葉っぱが生い茂っている。南東角のプールに沿って植えられた数本の細い椰子の木。濃い緑色をした、風に揺れるというよりも、自身が揺れることで風を起こしているのではないかというほどに大きな葉を持つずんぐりしたバナナの木。リビングから見下ろすすぐには、赤紫色のブーゲンビリア。今朝の出かけには、ふわりとした尻尾のリスをそこに見かけた。
 この場所に一番似つかわしいのは日暮れ時である。オフィスビルとマンションとの間にぽっかり開けた空から射し込む夕陽が、ちょうど部屋の高さに茂る木々に柔らかく透過する。鳥が鳴き、蝉の声が聞こえる。
 路地を隔てた北隣には教会、東側には大学のキャンパスが隣接する。渋滞で名高い大通りから数十メートル入るだけなのに、ふいに現代ではないバンコクが姿を現したような、不思議な静けさすら漂う場所である。
 まだ整理がついていないので、家の中には確立されつつある生活感に混じって、よそよそしさが少し残っている。
 帰りがけに、BTSを下りた四つ角の路上で、小さな花環を一つ買って来た。指の先ほどの、小さな白い房状のジャスミンと、柔らかく赤い色のバラで作らている。ラジオのアンテナに引っかけて、室内の光景に生きた彩りを添えてみる。
 窓を開け放しておくと、ほどよい風が土や草木の湿った匂いを運んで吹き抜けてゆく。向きによって、微妙にその匂いに違いがあるような気がする。一方の窓からもう一方の窓へとそよいでゆく風に乗って、花環から発せられた甘い香りが部屋を満たす。舌に直接垂らした蜂蜜のように、喉の奥にうずきを引き起こすほどに甘い。
 日没を経てしばらく、鳥も蝉も鳴き止んだ。間近の庭の風景が暗闇に沈む。目を上げた向こうからは、オフィスビルの明かりやビル名を示すネオンが木漏れている。2004年の暑季の始め、大都市バンコクの片隅の、こぢんまりと居心地のよいアパート。


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