雨季に、入る
「雪が解けると何になりますか?」 中学三年の最初の国語の授業で、教師が質問した。水に決まっているだろうと思ったら、「国語の世界では『春』になります」との説明で、びっくりした。なんてつまらないこと言うのだろうと、生意気にも思った。
そんなの、なんだってなるじゃないか。例えばそれが、南天の実を目に持つ雪うさぎであったなら。「雪が解けると、地面に落ちた実から双葉が生える」こともあり得る。あるいは、「二大国間の関係の雪解けは世界平和をもたらした」かもしれない。昼は灼熱の、夜は極寒の惑星ならば、「雪が解けたら朝になる」だけのことかもしれない。
一意的に言えるのは、そんなことは一意的には言えないというだけだ。揚げ足取り的な反論を捻るまでもなく、それが文章というものだ。限定されたそこだけ取り出して、さもこれが国語の解釈ですなんて教えられても、無性に居心地が悪かった。今思い出してみても、お尻がもぞもぞして姿勢を変えたくなる。
ただ、語の組み合わせとして考えてみると「春」に「なる」はふさわしい。同時にまた、童謡にも歌われるように「春」は「来る」こともできる。山にも里にも、野にも来る。
4月の最後の週の大雨で洪水に見舞われて以来、毎日ではないものの雨が降るようになった。この土曜日も、目覚めからしてその涼しさに驚かされた。日中もずっと薄暗く、時折の小雨。一般には雨季は6月からだが、外を歩くのすら億劫にさせる炎暑が和らいだことからも、何より雨が降るようになったという気候の変化からも(雨季以外には、まず雨というものが降らない)、既に今年のバンコクは雨季に入ったように思う。
そう、雨季の場合は「入る」なのだ。だが、「春」に「入る」では違和感を感じる。
どうして雨季には入れるのだろう。続いて訪れる寒季もちょっと入りづらい。一つ前の暑季だってそうだ。春夏秋冬も同じ感がある。組み合わせられる動詞は「なる」あるいは「来る」が一般的だ。
これらの季節の移ろいを明確に判断することは困難だ。昨日までの気温は25度だったけど、今日からは30度、というわけにはいかない。暑い日や寒い日があったりしながら、徐々に徐々に傾向として気温が上がっていったり、下がっていったりする。
扉の向こうに新しい季節があるとするならば、その扉は半開きで、あまりはっきりとは隔ててはいない。次の部屋に足を踏み入れて、ある程度歩みを進めて、ふとそれまでの道のりを振り返ってみたときに、数日あるいは数週間前とは違う空気にいる自分に気付く。そこで初めて「ああ春が来たのだなあ」と追認する他はない。
唯一雨季(あるいは梅雨)にのみ入ることができるのは、雨という視覚的にも極めて捉えやすい現象が定義付ける季節だからではないだろうか。しっかりと閉ざされた扉に掲げられた表札には、見紛うことなく雨の季節であることが明記されている。鍵を開け、ノブを回し、時間に背中を押されて、足を一歩踏み入れる。その直後に、バタンと音を立てて扉が閉まる。後戻りはできない。
4月の終わりから雨が降り始めた。雨季に入ったのだ。しかしここにはまた大きな問題がある。入ることはできても、語の連なりとして「雨季から出る」ことはない。だとすれば、我々は薄暗く湿った灰色の雲の下に永遠に閉じこめられてしまったのだろうか。否。しかるべき時が流れると、雲は切れ、再び雨は遠ざかる。これを、「雨季」が「明けた」と呼ぶ。
雨の季節が雨季ならば、雪の舞う季節を雪季と呼ぶこともできるかもしれない。雪が解け雪季が明けると、庭の片隅の雪うさぎは、細長いユズリ葉の耳をすっと立て、赤い南天の目をきょろきょろと動かし、辺りを跳ね回る。
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