ホットケーキ、ホットケーキ

 週末の朝食にちょっと甘いものを。とは言え、ホットケーキを焼いただけのこと。週の後半くらいから、ずっととらわれていたのだ。ホットケーキ、ホットケーキ、ホットケーキ……ああ、ホットケーキ。食べ物に関するイメージは、一度出現して頭にぴたりと貼り付いてしまうと、実際にそれを口にするまでは、どうあがいても剥がすことができない。
 小麦粉に少量のベーキングパウダー、卵を割り入れ牛乳を注ぐ。控えめに蜂蜜。あればバニラのエッセンスを数滴というところ。これ以上はないくらい極めて単純な料理である。例えば同じような材料であっても、スコーンやクッキーならオーブンがいるが、こちらはフライパンですむ。例えば粉を焼いて食うならば、たこ焼きもあるが、ホットケーキに具は不要。もちろんオプションとしてチーズを入れたり、ココアパウダーを混ぜたりという発展性はあるにせよ、あくまで基本は何もいらない。たこの入らないたこ焼きはないけれど、何も入っていないホットケーキは、必要十分にそれ自身として存在する。
 カンカンに熱くできる鉄製の方が好きだけど、こと、ホットケーキとオムレツに関しては、技術の未熟さを補ってくれるテフロン加工のフライパンの方が使いやすい。温めたそこに塊のバターを落とし、溶けたところで濡れ布巾に乗せて余分な熱を取る。じゅわっと湯気が上がる。
 弱火と中火の間くらいの火加減で、おたまですくったタネをできるだけ円形になるように、細くとろりと中心部の一点を狙って落とす。ゆっくりと丸く広がって、粘度に応じて適度な厚みを保ち、ふさわしいサイズで塊を形成する。バターが細かな泡となって、周囲にぷちぷちっとはじける。上から見たそれはまだまだ生っぽいままだけれども、ぷつっぷつっと表面に泡が上がってきたら、おもむろにえいやでひっくり返す。固まっていないとろとろの部分が垂れてしまわないように要注意。
 これまでの人生におけるホットケーキ焼きの道のりには、黒こげとか生焼けとかのもの悲しい記憶も少なくない。そこから培われた経験と養われた勘とに従って、程良い焼き上がりの頃合いで、大きめの平皿にとる。大きめ、というところが大切だ。蜂蜜を、今度は遠慮なくたっぷりと上から注ぐ。
 一人分として食べるに、大きいそれを放射状に切り取った一切れを食べるよりも、量は同じであったとしても、小さめに焼いたものを丸ごとの方が好きだ。どら焼きの二まわりくらい大きめで、できれば二段重ねで、直方体に切り出したバターを乗せて、側面にとろとろ流れるほどのメイプルシロップ。多分に、イメージにやられてしまった像ではあるけれど。
 ここで、もう一枚焼いて二枚重ねにして理想像を追うのもよいのだが、現実問題としてそこまではお腹に入らないので、今朝食べるのはこれだけ。バターも、あえて追加するまでもない。タネはあるのでもう一枚も焼いておくけれど、荒熱が取れるまでほうっておく(ラップしてジップロックして冷蔵庫へ収まることになる)。
 ナイフとフォークを添えて、牛乳を多めにしたカフェオレと共に。
 もちろん、平日の朝に同じことをしても何らおかしくはないはずなのに、甘いものを食事にするには、どうにも週末の方が向いている気がする。
 小学生後半の頃、日曜の朝ご飯は、子ども(僕と妹だ)が用意してから親を起こすというシステムだった時期がある。そのとき、ホットケーキに凝ったことがある。ヨーグルトを混ぜたりしてあれこれと工夫していた。自分たちでは飲まないけれど、ガリガリとコーヒー豆を手で挽くのも楽しかった。僕らが思い描いたブランチメニューがテーブルに揃うまで、親が目覚めていても起き出してくることを許さなかった。ホットケーキが焼き上がる、コーヒーが入る、ようやく親を起こす、四人で朝食にする。遙か遠い時代の暖かな記憶の一つである。
 頭にこびりつく食べたい欲求は他の物にも起こり得る。が、物によっては一口で満足を通り越して、なぜそんな欲求を持っていたのかさえ疑問に思えるものもある。コカ・コーラ、マクドナルドのハンバーガー……。だが、今回はまだ収まりがついていない。明日の日曜の朝もホットケーキにしよう。カフェオレの代わりにミルクティーを入れることで少しだけ変化を持たせて。


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