家事の不等式

 リビングルーム、と大仰に言ってしまうほどでもないのだが、起きている間に最も長い時間を過ごす部屋の一面は、庭を見下ろせる窓になっている。引っ越してきてすぐにみっちりと磨いた。が、強い雨が降ってしまうとおしまい。空気中に漂っている目には見えない塵の量が尋常ではないので、雨に溶かされたそういうものが、うすぼんやりした爪跡を一面に残していく。そして今は雨季のただ中。日常的な雨降りに従って、徐々に堆積していく。
 どうしたって目に入る場所だし、この窓から見下ろす庭の風景が気に入って住んでいるようなものでもある。なのに、せっかくのそれが汚れていてはどうしようもない。そういう、うじうじと思う日々がしばらく続いていた。
 では、磨けばよいのである。僕にとって家事、特に「片づけ、あるいは掃除」に取りかかる動機のほとんどはそこにある。じゃあ、今やろう、と。
 書棚に本が横になっていても、使い終わった食器が流しに残っていても、洗面所の鏡が曇っていても、便器に汚れがこびりついていたとしても、実際問題として生きていくことに直接的物理的な支障が生じるわけでもない。ただ、こういった事象に関する負の方の許容量を、僕はあまり多く持たない。自分の家で、何かが目の端に引っかかる。それを放ったらかしておくことでのやるせない思いを抱えるよりは、むしろそんな状態を解消するためにちょっとした手間をかける方が、相対的に楽だと感じる。
 本や新聞を読む、食事をする、排泄する、雨が降る、あるいはもっと言えば時間が流れる以上、あらゆる物事は拡散の状態へ流れていく。時として日々の変化は目に見えないほどに緩やかにではあるにせよ。その結果として発生する、整理されていない、清潔でない状態というのは、明らかに負である。
 同時にまた、労力を費やすこと、手間をかけることそれ自体も同じく負である。洗い物や掃除その行為だけを独立して考えてみると、楽しいことだとは決して言えない。
 そしてこれら二つが同時に正である状態というのはあり得ない。つまり、洗い物をせずともいつでもよく磨かれたグラスでビールが飲める環境というのは、外であれば金銭という対価に基づいて入手できるが、家の中の話しではない。
 であるならば、多少の手間を日常的にかけ続けることで、できるだけ整った状態を保ち続けようとの発想に至る。つまり、僕の中にある快適という軸の上で、(汚れや散らかりを放っておくことに対する不快感)<<(それを解消するための掃除等の面倒)<0という不等式が成立している。結局のところ、ただのバランスの問題に過ぎない。
 窓ガラスにこびりついた汚れに関しては、耐えられる限界を超えたままの時間が少々長すぎた。そういうわけで、ようやくと先週末に窓を磨いた。すぐに汗がシャツに染み、身体に貼り付く。洗剤を吹き付け、黙々とスポンジでこすり、水で流し、ワイパーで仕上げの水切りをする。
 透明な窓ガラスと、その先のくっきりした緑の風景を取り戻すと、予想していた以上に気持ちの方もさっぱりとする。その後ずっと窓が視界に入る度に気分がよい。
 家事というのは、マイナスからゼロに戻すだけの作業では決してない。手を付けるまではそういう意識でいることも多いのだが、実際に為してみると、自分の精神面に作用するプラスアルファの部分が相当に大きいことに気付かされる。
 改めてそういう目で見てみると、他にもいくつもあるような気がする。洗いたてのバスタオルで身体を拭くときの肌に感じる心地よさだとか、太陽の香りがするふかふかの布団にくるまれる幸福感だとか、ぴしっとアイロンをかけたシャツに袖を通すときの気持ちの引き締まり方だとか。


戻る 目次 進む

トップページ