樽八の思い出

 やあ。遅くにごめんね。あのさ、樽八って覚えてる? ええっ!? 知らないはずないよ。まあね、10年近く前のことだもんな。ヒント、半身唐揚げ。ほら、思い出した。そうだよ、百万遍上がった所にあった居酒屋。目の前に安井病院があったから、いざとなればそこにかつぎこめってね。
 店員はめっちゃ無愛想だった。特にレジに座ってたおっさん。いっつもテレビばっかり見て、客にニコリともしないで。でも、安いし、急に大人数で行っても必ず席は空いてたから、結構よく通った。
 で、半身唐揚げ。懐かしいでしょ。新入生とか、ジャンケンで負けたヤツとかが、鶏の半羽がまんま揚げられたのを、アチチって言いながら身をむしらされるんだよね。何でだか、一味を大量に振りかけたりして。うん、ぱりぱりした皮とか結構美味しかった。
 生ビールもすごかったでしょ。ジョッキの冷え方が尋常じゃなくて、ビールが凍ったもんね。
 いやね、なんでかって言うと、今日飲みに行ったお店で凍りついたジョッキが出てきて。自分でボトルからハイネケンを注いだんだけど、上の方で泡が凍っちゃてさ。あれ、これってなんだか覚えがあるぞ、って。それで思い出してたんだ。
 行ってたお店って言うの、実は雰囲気のいいオープンエアのカフェなんだ。週末によく通ってる。花が活けられたり、ちょっとアートっぽい感じもあって、居心地がいいんだ。違うよ、飲み屋じゃないよ、カフェだって。似合わない? ほっとけ。
 今日の日曜はけっこう混んでた。隅の方の木の椅子に腰掛けてビール飲んでたんだけど、そしたら、大きな荷物を背負ったアジア系の旅行者が一人「ここ座ってもいいですか?」って目の前に来たんだ。断る理由もないし、若い女性だったから、どうぞって。
 その時にはもう、あの時代にまつわることを色々思い出してた。iPodから小さな音でガムランを聞いてた。他にも色々と考え事しながら。
 でも、そしたら彼女が煙草吸い始めちゃってさ。煙たいの苦手だから、「申し訳ないんだけど、吸うなら他の席探してくれないかな」って言ったんだ。彼女はアラって感じで、「じゃあちょっと離れて吸ってくるわね。荷物見といてくれませんか」って。うん、それは全然構わない。どうせ僕ももう一本くらいは飲むつもりだったから。
 しばらくしてその彼女が戻ってきて、注文してたご飯食べて、また大きな荷物を背負って立ち上がったんだ。気を悪くさせちゃったかなって思ってたから、「楽しいご旅行を」って最後に声をかけようと、ずっと待ちかまえてたんだけど、結局言いそびれたまま、お勘定済ませた彼女は立ち去ってね。
 言いたいことが必要なときに出てこないんだよね。たちの悪い人見知りだから。しょうもないことは、頼まれなくてもいくらでも口をついて出てくるのに。自己嫌悪だよ。
 僕のせいでバンコクに嫌な印象持たれたら、彼女にもバンコクにも申し訳なくって、ちょっとしょぼんとしてたんだ。
 で、まあ、結局小瓶3本飲んで、夕方になったから家に帰ろうとしたんだ。そしたら、店員さんが「最近、お見えになりませんでしたね」って、にっこりと話しかけてきたんだ。うん、先週は体調崩してたし、その前はラオスに行ってたから。
 それがさ、すごく嬉しかったんだ。ただの飲んだくれの客に過ぎないんだけど、顔を覚えててもらった上に、声かけられて。それだけのことなのにね。不思議なもんだ。
 早く本題に入れって? だから、これが本題。なんてことのない日曜日を過ごしてたんだ、って。ちょっと落ち込んで、その後で嬉しいことがあって。懐かしいことを思い出したから、そのことも言いたくって。それだけだよ。ああ、悪かったね。そっちはもう1時過ぎか。ごめん、ごめん。うん、おやすみ。
 そう言えば、誰かから聞いたけど、樽八って、もうけっこう前につぶれたらしいね。さもありなん、って気もするけど、やっぱりちょっとだけ寂しいや。

付記:京都に暮らす友人からのメールによると、件の樽八、「ラーメン屋がくっついたり、色々変わってはいますが健在です。もっとも、半身唐揚げがまだあるかどうかは分かりませんが・・・」とのこと。失礼しました。


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