10年来

 10年前の僕は、どんな人間だっただろうかと思い出してみる。確か、今よりもっと攻撃的な側面が強く、他人の眉をしかめさせることが多かったのではないか。より悪いことには、何者に対してもあっけらかんなまでに無防備だった。だから、自身が傷つくことを防ぐために、自身をどうこうしようとは思うのではなく、むしろ自分にそぐわない相手にその非を押しつける狭量な人間だった。そして、そのいずれが持つ意味や及ぼす影響にも頓着しなかった。世間知らずどころか、知っていることなんてほとんどなかった。
 同級生や、同じサークルで過ごした人間。あるいは旅仲間やアルバイトの同僚などは、基本的に同世代である。僕が若かった分、そいつらも若かった。そしてほぼ同じような足取りでこの間の年月を過ごしてきている。だからそこには、当時を振り返って「オレも大概やったけど、お前やって似たり寄ったりやで」と、チャラにしてしまえる気安さと安心がある。
 でも、ごく稀に、そうではないパターンの知り合いもある。
 今夜食事を誘われた相手もまた、10年前からの僕を知っている人物だ。その当人と最後に顔を合わせたのは、2年少々前のことだ。さらに言うなら、一緒に来られているご家族とも、二度ばかりお会いしたことがある。
 バンコクに遊びに来る友人、知人と言うのは、平均すると2週に一組くらいあると思う。旅仲間は長期滞在が多いから実際より多く感じられるのかもしれないが、そのように僕は実感する。しかし、これまでのおよそ2年と3ヶ月の間で、今夜の相手との再会は、一番緊張したかもしれない。
 あの時代の僕と今の僕とは、行動原理や人生の原則の置き方はさほど変わっていないかもしれないが(成長していないだけだ)、修飾的な部分においては、年齢相応とまではいかないにせよ、ある程度はましな方向に変化しているものがあると、自分で振り返って思う。その視点からすると、当時の僕を見知っている、同世代ではない知人と言うのは、少なからず僕を緊張させる。
 当時彼のお子さんは小学校の低学年だった。オリエンタルホテルのロビーで再会して、何よりびっくりしたのは、彼の背は既に父親を抜いていたことだ。
 ホテルのプールの横を通り、送迎船に乗る。タクシン橋駅からBTSに乗り一駅。予約しておいたレストランはとても雰囲気がよかった。緊張が続いていたのだろうか、マンゴーシェイクを注文しようとして(その中学生のリクエストだ)タイ語で「マンゴー」という単語がうまく出てこなかった。
 店員がメニューを説明する。「タイ料理には辛いものがあります。当店では、辛さの度合いに応じて、象のマークで示しています。ここには1つから3つまでしか記載されておりませんが、本当のタイの味を試してみたければ、どうぞおっしゃって下さい。4や5の象の辛さの物もお作りいたします」
 メニューを選び、彼らのリクエストに従って「どれも辛くしないで」とウェイターに伝える。僕と彼はビールグラスを合わせる。「元気そうで何より」「お久しぶりです。バンコクへようこそ」
 食事をとりながら、土産物屋やマッサージ屋のお薦めを地図に書き込み、アユタヤへは是非どうぞと紹介し、少しだけ昔の共通の知人の消息を語り合う。期待以上にとても楽しい時間だった。
 以前、その方の別荘に招かれたとき、僕はただ酒をよいことに散々飲んだ。そして、当然の帰結として吐いた。そのシーンを当時の小学生がどうやら見ていたらしい。同じ招待客だった別の友人が「ねえ、あのお兄ちゃん、お父さんの車の横で吐いてたよ……」と、こっそり耳打ちされたらしい。
 もちろん酒のことに限らず、思い出すと赤面することは多々ある。だがそれと同時に、今夜の再会は、草原に上る朝陽のように、心の隅までをそっと穏やかに温めてくれた。時の流れによって忘却の彼方に押し遣られるものがある一方で、時の経過しかもたらすことのできない感情がある。


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