魅入られて、眼差し
じっと見詰めている。瞬きすることすら忘れたかもしれない。だが、眼に力を込めているはずが、その思いとは裏腹に、徐々に眼の奥の筋肉が弛緩する。焦点が拡散してしまった視界は茫漠とする。同時に、日常生活における意識のスイッチがふつりと切れる。底の方では、かすかにその状態に陥る自分を認識しながらも、もうここまで来たら戻れないこともまた分かっている。ある一点を境に、それまでとの連続性が見事に失われる。
寝入り端の感触とよく似ているけれど、ちゃんと目は開いている。全ての意識を失うわけじゃない、眠るわけではない。不思議にゆらゆらした軌跡を描いている目の前の対象物が、全ての感覚を覆う。柔らかな毛布を全身に被せられたように、温かく心地よい。
水のゆらめきというのは、知覚の根元に働きかけるかのようだ。普段は絶対気付くことのないような頭の隅に、ひっそりと、だが確実に脈々と受け継がれてきた原初的な記憶。
僕の場合、それは特殊な体験ではない。むしろ日常的にやって来る。渦を巻く洗濯機の中身が、僕の意識に何かしら働きかける。見飽きない。むしろ魅入られてしまう。おかしなものだが。
昨日、久しぶりに大きな買い物をした。金額も大きいが、サイズもある。洗濯機、である。在タイ者向けの掲示板の、売ります・買いますコーナーで見つけた物。7Kgという容量は、少々大きめに過ぎる気もするが、大は小を兼ねるである。サムスン製、ステンレス槽の全自動。2年半前購入の中古品の割にはほとんど使われておらず、売り主もおっしゃっていたように、状態は非常によかった。納得して5,000バーツを支払う。元の価格は16,900バーツとのこと。よい買い物をした。
バスルームの一角に据え、トイレに設置されている「水洗用」の小型シャワーの口を外し、そこに給水ホースを接続する。コンセントをつなぎ、スイッチオン。もちろん、蓋を開けたままじっと覗き込む。
洗濯物の重さが自動的に計量され、必要量の水が流れ落ちる。回転が始まる。これが、おもしろかった。始めて見るパターンだ。洗濯槽が回りながら、同時に上部の二つの方向から、くみ上げられた水が撒かれる。水が描く形は、薄く透明な二枚貝の貝殻のようで、ちょうど中央部でそれらがぶつかる。その間にも、ぐるぐると水流が渦を巻き、その中ではとりどりの色が踊る。やはり、短くはない時間、眺めてしまう。
ここしばらく利用していたのは、アパート共有の縦型のドラム式の物だった。僕が住む棟の1階にあり、僕は2階の住人だから、階段を上り下りするのが面倒だった。その度に使用料の70バーツを門番に支払いに庭を横切るのも、ささいだけど手間だった。他人が使っていたら、終わるのを待たなければならなかった。
スティールのカゴに洗い物がたまるのが随分と早く、そしてその堆い固まりをわずかながら否定的に感じていた。
が、今回、ずいぶんと良い物を安く買った。そしてそれは目の前にある。この数日分が洗い終わり電子音がそれを知らせる。物足りなくて、その次にタオルケットを洗う。悪い子を探すなまはげのような気分だった。洗い物はねえか〜。もうなくなってしまった。今夜はテニスだ。汗を吸い込んだタオルとシャツと短パンと下着と靴下とリストバンド。今度は、洗い物がたまるのが無性に待ち遠しい。
単なる嬉しがり屋で、何かあるとすぐにはしゃいでしまう性分なだけである。そして、僕が大好きだと思うものを、僕はじっと見詰める。他を省みないほどに、ずっと。
註釈:「水洗用」のシャワーが想定している洗う対象というのは、用を足した後のお尻です。アジアの安宿などでよく見かけます。とは言うものの、うちのトイレ自体は普通の洋式の水洗です。右手を伸ばせばトイレットペーパーのホルダーもあります。僕がこのシャワーを用いるのは、便器の掃除のときくらいです。念のため。
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