思い出とパスケース

 週末のどこかで、パスケースを失くしてしまった。2年と少々前に、梅田の、ヨドバシではなく阪急百貨店の地下のコムサで、結構時間をかけて選んだシンプルな黒い物だ。片手ですっとカードを抜き取れるような作りになっていた。その中には、以下のカードが入っていた。
 BTSのプリカ(残額は100バーツに満たない)、地下鉄のプリカ(残額300バーツほど)、レインボーカードだったかラガールカードだかのスルッとKANSAIのカード(1000円もなかったはず)、テレカ(日本の携帯を持たない人間には必需品、残りは数十度だろう)。後者2枚は、いちいち出し入れが面倒だし、嵩張ることもないので、ずっと入れっぱなしにしていた。
 いくつか心当たりの場所を当たってみたが、出てこない。ケース自体は、買い換えの必要があると長い間思っていたほどにへたっていた。無くした金額も大きいと言えば大きいが、壁に頭を打ち付けて悔やむほどでもない。そうなったらもう、あっさり諦めた方が気分的によい。物だって愛だって、失くなるときには失くなるのだ。
 何はともあれ地下鉄には毎日のように乗るので、シーロムの駅で改めてカードを購入する。新しいケースを買うまでは財布に入れておくことになるなと、窓口の列に並びながらぼんやり考えていた。
 透明なプラスティックで仕切られた窓口の駅員が「ありがとうございました」と言いながら、カードと一緒に手の平くらいの大きさの箱を一つ渡してくれた。紺色の地に銀色で社名が印刷されている。
 電車に乗り込んで開けてみると、なんと黒いパスケース。二つ折りで、カードが6枚とお札が入れられる。正直なところ、シンプルと言うよりもちゃちではある。が、地下鉄の改札は非接触式なので、カードを出し入れしやすい仕組みは別に必要ではない。そもそもどうせズボンの尻ポケットに入れっぱなしになるべき物である。気に入りが見つかるまで、暫定的にこれを使うことにする。
 このケース、開いた右側に、「BMCL」(Bangkok Metro Public Company Limited)のロゴが刻印されている。鉄道会社のグッズ類は、その筋の人には人気だと聞く。もしかしたら、これも好きな人には堪らない一品になるかもしれない。
 大学時代の同級生に一人、自他共に認める鉄道マニアがいる。当時、彼が下宿していたのは、叡山電鉄の宝ヶ池駅を見下ろせるマンションだった(別に趣味でそこに住んだわけではないと否定していたが)。大学2回生の夏休みに、一緒に香港へ旅行に行った。ある一日は、それぞれで適当に過ごそうということになった。僕が地図を片手に街歩きをしていたその日、彼が取った行動は、路線図を眺めながら地下鉄全線を乗りつぶすことであった。
 もしや鉄道マニア垂涎か、との思い付きと同時に、久しぶりに彼のことが頭に浮かんだ。結構長いこと会っていない気がする。なんだか懐かしい。よく一緒に酒を飲んで馬鹿話をした内の一人だ。彼に聞かせるのは気恥ずかしいのでここだけの話しだが、僕がつらい状態にあるときに、そいつの一言に大いに救われたこともある。
 今頃は、どこかの地裁で裁判官をやっているはずだ。もし僕が何かの咎で捕らえられ、黒い法衣を纏った彼の前に引きずり出されたとしても、学生時代の思い出を語り、情に訴えるようなことはしない。それよりも、このパスケースを掲げ「お願いだ、これをあげるから見逃してくれ」と懇願する方がよっぽど有効なのではないかと思う。
 憲法76条でも、確かこのように謳われている。「すべて裁判官は、その趣味と良心とに従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される。」


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