今日から君は

 昨日の夕刻、オフィスにて。隣席の人が急いで帰り支度をしていた。僕は何の気なしに尋ねてみた。「どっか行くの?」
 「うん。区役所に。改名するのよ」

 そして今朝、再びオフィスにて。
 「名前、本当に変わったの?」と僕が尋ねる。
 「ほら」と新しい国民証を見せてくれる。
 そこに記された名はカチャチャヤー。知識を持った蓮の花、という意味があるそうだ。昨日まではランシマーだった。こちらには、太陽という意味がある。
 「『ランシマー』が気に入ってたから、正直なところ、あんまり気乗りしなかったんだけどね」
 「でも、いったいどうして?」「東京に住んでる母親が、そうした方がいいって電話してきたの」
 「どうしてお母さんは、そう言ったんだろう?」「祖母がそうするように言ったから」
 「どうしておばあさんは、そう言ったんだろう?」「お坊さんの勧めなのよ」
 「どうしておばあさんは、お坊さんとそういう話しになったんだろう?」「ほら、私この間24歳になったじゃない。次の25ってタイでは厄年だから、その前にお寺に色々お伺いをたてるものなのよ。で、変えた方が縁起がいいって」
 「なるほどね。それにしても、ずいぶんあっさりと手続きできるんだね」
 「住民票と国民証を持って区役所に行くだけ。手数料に25バーツ、新しい国民証の発給に20バーツ。全部で45バーツ。窓口で、新しい名前に意味があるのかどうかを訊かれたけどね。タイ人の名前には意味が必要だから」
 僕はとっさに思いつく疑問を口にしてみた。「会社のメールアドレスとかも変えるの?」
 「相手にも面倒かけちゃうから、それは変えないつもり。銀行口座とクレジットカードの名義くらいかな」
 「パスポートは?」
 「まだ有効期間も残っているし、次の切り替えまではそのままにしとく。だって、出入国のときは、特に国民証を示すこともないもの」
 「僕なんか自分の名前を変えようって考えたことがないんだけど、いったい、どういう感じがするものなんだろう?」
 「別にこれと言った感慨も……。そう言えばただ、私の祖父が、父方のいとこ二人と私に共通の『ラン』で始まる名前をつけてくれたのね。『ランサリット』『ランローン』それに『ランシマー』。この統一感から外れるのは、ちょっと寂しいかな」
 「そう言えば、チューレン(あだ名)はどうするの?」
 「そのままよ。チューレンも、いとこたちと似てるのよ。『トィックトック(チクタク)』『トンテーン(振り子が行き交う擬音)』そして私が『タイトゥン(英語のTitle)』。そっちは一緒のままよ」

 これら一連の会話は、僕がこれまで出会ったエピソードの中でも、五指に入るおもしろい異文化体験だった。

 

補足:この後、以下のような会話が僕と彼女の間で交わされた。
 「あのさ、実は、個人的なウェブサイト持ってるんだけど、この話しすごくおもしろいから、そこに書いてもいいかな?」「いいわよ。でも、タイ語でも書いてね」
 「……」

タイ語版


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