後書き

 旅行記ルアンプラバン編のb面として書いた文章が一通り完結して、全体にわたる推敲も落ち着いた。
 これについて、「もしかして私小説?」と見る向きがあることを僕は危惧する。全編について事実との対比を挙げることはしないが、登場する全ての人物と情景の多くは、僕の脳内で生み出された存在であることを、改めて言明しておく。
 もっともふさわしいのは、「二次創作」というジャンルにあてはめることではないだろうか。雑文やら旅行記やらに出てくる「バンコクに住む僕」を使って、新規のお話しを組み上げること。ただし、一般的なそれとの明らかな差異は、a面もb面も同一人物が書き記したという点である。その意味では、「外伝」とでもすることができるのかもしれない。
 「創作は書かないのか」とは、ここ半年ばかりの間に、何人かの友人から何の気なしに問われた言葉だ。内の一人、少しだけ年上の男性はこうも言った。
 「オマエの文章読んでたら、暑いときは本当に暑いって感じるんだよな」
 すごく、嬉しかった。そのあたりから、何かやってみようかな、と、ぼんやり考えてはいた。
 あるいはその一方で、僕が読者として手に取る本で、特に最近の物に関して、「なんだこれは。ストーリーは陳腐で、文章は稚拙だ。下らないもの書きやがって」と思うものにいくつか出会ってきた。自分で何とかできないだろうかと、不遜なくすぶりもあった。
 さらに、これまで8年ほど、旅行の体験とそこで考えたことを文章として残してきて、少々飽きがきている時期でもあった。毎回同じようなことを書いているだけのようにも感じていた。何か新しいことを求めていた。
 完全なゼロから始めるには、僕の能力はあまりに底が知れている。だけど、ルアンプラバンを流れるメコン川のほとりで、日光を浴び、風に吹かれながら、こう思いついたときには、何かが書けるかもしれないと具体的な予感のようなものを感じた。
 「もしも僕が、この三連休をバンコクで過ごしていたらどうだろう」
 現実の僕は、当然ルアンプラバンへ飛ぶ。一方、バンコクにいて予定のない僕は、思いがけない再会を果たす。旅行記でやってきたように、一日一話で基本的に時系列に従って書く。a面と微妙にリンクさせたら、読み物としての面白さも増すのではないか。
 この思いつきから今日まで、ずっと頭にあった。歩きながらも、電車に乗りながらも、眠りに就きながらもずっと考えていた。どうしたらいいだろう、どうなるんだろう。
 その上で、「書く」「終わらせる」という具体的な作業は、小さくはない肉体的、精神的疲労を伴った。だがその中でも、一つ何かを抜けたときに得られた心の高揚は、例えようもない快感だった。例えば、ストーリーがつながったとき、ふさわしい比喩を思いついとき、洒落た会話が組み立てられたとき、などなど。このためだったら、どれくらいのしんどさだってかまわない、と思った。
 しかしながら、今ここで改めて読み返してみて、やはり僕はこう言わざるをえない。
 「なんだこれは。ストーリーは陳腐で、文章は稚拙だ。下らないもの書きやがって」
 チャオプラヤ大なまずにすら、そっぽを向かれそうだ。


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