親の教え

 僕が18の春先まで暮らしていた家の家訓の一つに、「酒をもらって喜ばない酒飲みはいない」と、いうものがある。例えばお宅を訪問するだとか、お世話になったお礼をしたいだとかの理由で、人に贈り物をする段に、何を差し上げようか迷ったら、相手が酒飲みならば酒にしておけ。
 もう一つ。両親が学生時代に所属していた研究室の教授であり、かつ仲人も務めていただいた人物に由来する教えも、子どもの頃からよく聞かされた。「……先生がおっしゃっていたように、『酒は残すな、こぼすな』だよ」
 血肉となっている親の言の中でも、特に中核を為す二項である。
 この5週間ばかり、毎週どこかに日本から友達が来ていた。彼/女たちは、親切にもお土産として何がしかの酒類を運んで来てくれた。秋味だったり、ラフロイグの10年だったり、自家製の5年物の梅酒だったり、行きつけの酒屋のお薦めだと言う地酒だったり、60度もある泡盛だったり。本当に有難い。実際、酒をもらって喜ばない粟津はない。
 その温かな気遣いに僕も応えたいと、心の底から思う。目には目を、酒には酒を、である。(「そして、二日酔いには味噌汁を」と、オチがつく)
 棚から、とっておきの一本を取り出してうやうやしく勧める。
 「これ、ラオスで買ってきてん。ルアンプラバンからメコン川を遡った所にある、小さな村で手作りされてる、貴重な酒やねんで」
 貴重と言うのはあながち間違いではないだろう。3分で一周できたほどの産地の村の規模からしても、絶対的な生産量は微々たるものだと思う。だが、問題は、まったくもってこれが美味しくないという点にある。世の中には臭くて美味い物も数多く存在するが、これに関しては、臭い上に激しく不味い。
 いわゆるタイ米を原料にした蒸留酒で、瓶に寝かせて作るのだから、見知った存在で例えれば、まさしく泡盛である。双子か、せめて同級生くらいの関係にはあるはずだ。だが、極めて正直に感想を述べるならば、こいつは、食品の範疇を逸脱しているような味と臭気がする。
 興味深げに待ち構えていた友人たちも、透明な液体の入ったグラスを手にし、鼻に近づけた段階でまず躊躇する。好奇心が正常な判断を凌駕した数秒後、意を決したように一舐めする。そして、眉をしかめ、口を歪めて言う。「何、これ?」
 何と問われても、ラオスで買ってきた酒だとしか答えようがない。僕は自分で最初に試したとき以来、もう口にしていない。正直に謝る。
 「ごめん、不味いやろ。話のネタにでもなれば十分やから、捨ててもらってええよ」
 一人を除いて、皆、多少の罪悪感をその表情に滲ませながらも、グラスを流しで空けた。決してこちらが無理強いしたのでもないに関わらず、「いやいやまあまあ、せっかくだから」と、大量の水で割って飲み干した唯一の例外は、帰国後に「あの翌日は昼まで起き上がれなかった」とメールを送ってきた。
 日本から持ち込まれる酒が次々と消費される一方で、300ml程度のラオス酒の小瓶の中身は、未だに尽きない。人にあげても喜ばれない上に、捨てられてしまう。
 家訓に忠実でいるのも、時によっては大変だ。


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