犀の角のように

 今さら宣言するまでもないが、僕は極めて俗な人間である。大多数の日本人と同じく、特定の宗教を持たない。正月には神社に詣でるし、寺を訪ねれば、たまにだが賽銭を投げ鐘を鳴らし、クリスマスにはシャンパンの栓を抜く。肉も食えば酒も飲み、街でミニスカートの女性を見かけたならば、目はその脚を追ってしまう。それに、場合に応じては、平気で嘘だってつく。神、あるいは宗教によって律されることはない。
 ひょんなことで出かけたアユタヤの青空の下、50過ぎの知り合いのタイ人女性と、こんな会話に興じたことがある。
 「あなた、何か宗教はあるの?」との質問に僕は答える。
 「いえ、とりたてて何も信仰していません」
 付け加えて言う。「だけど、信じていることはあります」
 「何かしら?」
 「それは、愛です」
 「あはははは。ちょっとみんな聞いてよ(と、他の同行者の注意を引く)。アワヅ君が信じているのは、愛なんだって。あはははは、あー、おかしい」
 閑話休題。しばらく前に、岩波文庫の「ブッダの言葉」を読んだ。これは、現在研究されている範囲において、仏教の聖典の内の最古のものだと解説にある。ぎゅっと簡潔な言葉で、ゴータマ・ブッダの教えが記されており、いずれも、非常に優れた詩句となっている。どこまでも平坦な暑い大地、風の揺らぎ、そして張りつめた空気が、一言一句に満ちている。語句を捉える度に、言霊が胸を震わせる。
 そこかしこで用いられる比喩も、僕の知らなかった言語の地平を拓いてくれる。例えば、「蛇の章」では、力強い意志がこのように喩えられる。
 「犀の角のようにただ独り歩め」
 ずっしりと重みが響く表現だ。
 あまりにおもしろくて、立て続けに二回読み、それでも足りなくて、枕元の一冊に加え、眠りに就く前に時折ぱらぱらと拾っている。語られる内容と、その語られ方を楽しみ、出会う中には、自己に取り込み、内に据える意義を見出すものがあり、そしてあるいはまた、文章表現としても学ぶ。実に、このような本を良書と呼ぶのであろう。
 先般、友達の家に遊びに行ったとき、同じ訳者の手による「ブッダの真理のことば・感興のことば」を本棚に見つけ、貸してもらった。
 同じくこれも、すごくよい。思うに、中村元という訳者の力量も図抜けている。表紙に「本訳は世界でも初めての完訳」とあるが、僕の母語でこれを読める幸福をもたらした彼の功績は偉大である。
 本来的にブッダの教えは、宗教ではなく哲学であると言われる。「ブッダのことば」内の註で説明されているが、第181節にある「どのように生きるのが最上の生活であるというのか?」というのが、仏教の中心問題であったそうだ。
 これなら、歴然たる程度の差はあるにせよ、僕ですらよく考える。最上の生活を求め続けたい、信じる愛も叶うような。
 しかし、ブッダはこう教える。「愛情から災いの生ずることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め」(第36節)


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