圧倒する文章

 「二一時五十分、ミラノ・リナーテ発。」
 旅行にまつわる文章で、飛行機や列車などの情報を記すのはよくある手だ。いつ、どこかという舞台を客観的に、簡潔に提示することができる。
 同時に、その地名が読者に対して喚起するイメージに寄りかかることもできる。「午後2時、マニラ・ニノイアキノ発」「午前6時、新大阪発」と比べてみるだけでも、受け取る感じの違いは明確だ。地名と時間は、かなりの程度、読者の意識を限定する。これは、便利なやり方だとも言える。でも、あるいはそれ故に、陳腐でもある。
 だから、友達に薦められてめくったエッセイの冒頭の一文で「二一時五十分、ミラノ・リナーテ発。」と読んだとき、新しい一冊を手にしての「さあ、読むぞ」という気が、少し削がれたことは確かだ。
 だけど、僕の得た感想と、それがもたらしたこの筆者に対する負の予測は、間を置かずして劇的に転換する。
 夫の思い出にまつわる、ある詩人のかつての住処を尋ねる旅。その詩人もすでに亡き人である。透明度の高い灰色をまとった過去が、それでいて現在と全く対等の重みを持つ意味が、輪郭のきっぱりとした影として、始めから終わり、そしてその先までをも貫いている。
 全てが美しい文章だった。ため息が漏れ、心臓が鼓動する。重力から解放されたように、手足がふわりと軽くなる。そうさせる、何か特定の一文があるわけではなかった。各々の語句の集合としての文、さらにそれらが綾となった文章。その個と全体の全てが、ふさわしい場所で、これ以上はないというもっともふさわしい光を帯びている。全体としてよくできた点描画でありながら、その点の一つ一つを微視的に見ても、なお精緻に完成している。
 超高度な光学機器に用いられるレンズを、機械よりもはるかに精密に磨き上げる職人の手によって、一文字一文字が寸分の違いもなく配置されたようだ。
 僕がこれまで多少なりとも組み上げて、そして守ってきた石塔が、いとも簡単にぐらりと揺れたみたいだった。こんな文章があったんだ。有限の言葉から生み出される無限の文章表現の、それまで想像もしたことがなかった境地だった。
 その夜、ベッドに横たわり、なお感動の中にありながらも、その文章への考察を行おうと試みてみたが、あまりにそれが巨きすぎて、すっぽり世界が包まれてしまい、逃げ道すら見えない怖さに襲われた。まるで、ひたひたと圧倒的な闇が迫るようだった。
 須賀敦子、「トリエステの坂道」を読んで垣間見たのは、そういう世界観だった。


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