人が何かを好きになるとき、そのきっかけはほんの些細なものに過ぎないことがある。それまでの無関心や、もしかしたら影のように含まれていた密やかな敵意すらも、風が頬をさっとなでる程度、あるいはそれよりもずっと軽微な何かによって、がらりと意識が変わることがある。
一目で恋に落ちるというのは、まったくその一つの例だろう。ふいにある人が、まるで光をまとったように眩しく見え、心を捉えて離さない。
あるいはその対象は、人に限ることではない。
さらにその次の機会のバンコクで、彼が知り合いに連れられて行ったのが、シロッコと言うレストランバーだった。地上63階のオープンエア。シーロム通りの西の果て近くにあり、チャオプラヤ川も近い。
僕も何度か行ったことがある。値段は少し張るし、店の作りは、僕らの目には上滑りしかねない気障な色をまとっているものの、その雰囲気は悪くはない。タイの店にありがちで、BGMや、頭上の舞台から生演奏されるジャズの歌声は、時として耳に障る音量ではあるものの。
飛行機ではなく、地上に根ざした建物からバンコク見下ろすとき、この店からの景色が一番美しい。オフィスビルの明かりの群れ、行き交う高速道路をゆるやかに描く車のライト。蛇行するチャオプラヤが、その光の中に黒い帯として抜けている。
三度目のバンコクで、二度目のシロッコに上ってきた彼が、懐かしむように、柔らかく言葉を発する。
「これを見てバンコクが好きになったんだよね」
<参考リンク>
・Sirocco
・transiency /旅行記
彼の旅はその後、タイ南部からペナン島、そしてインドネシアに入る。スマトラ島、ジャワ島をたどり、そして彼にとって特別な意味を持つバリ島を再訪し、ロンボク島まで至る。痛々しい旅行記、というものもこの世に存在することを、僕は知った。