ささやかに扉が開く

 2年ばかり前のこと。互いのやり取りに少し隔たりがあった友達に、久しぶりにメールを出して、その内バンコクに遊びに来ないかと誘ってみた。
 そうしたら、スンガイコーロクにいるから、これから鉄道で上がっていくことにする、という返事をもらい、ずいぶんと驚かされた。
 その一月ばかり前にクアラルンプールに入った彼は、マレー半島を南下、クルアン、メルシンという南部の街を周り、半島東部を北上の途にあった。
 彼にとっては初めてのバンコクで再会のグラスを合わせたが、わずか数日後には、チュムポーンへと下って行った。僕にとっては少しばかり残念なことに、彼はこの街にさほど満足を抱かなかった。それどころか、不満や不安を抱えた滞在で終わっていた。
 瞳にも、語られる言葉にも、薄暗いものを感じずにはおられなかったことを、申し訳なさと共に記憶している。

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 人が何かを好きになるとき、そのきっかけはほんの些細なものに過ぎないことがある。それまでの無関心や、もしかしたら影のように含まれていた密やかな敵意すらも、風が頬をさっとなでる程度、あるいはそれよりもずっと軽微な何かによって、がらりと意識が変わることがある。
 一目で恋に落ちるというのは、まったくその一つの例だろう。ふいにある人が、まるで光をまとったように眩しく見え、心を捉えて離さない。
 あるいはその対象は、人に限ることではない。
 さらにその次の機会のバンコクで、彼が知り合いに連れられて行ったのが、シロッコと言うレストランバーだった。地上63階のオープンエア。シーロム通りの西の果て近くにあり、チャオプラヤ川も近い。
 僕も何度か行ったことがある。値段は少し張るし、店の作りは、僕らの目には上滑りしかねない気障な色をまとっているものの、その雰囲気は悪くはない。タイの店にありがちで、BGMや、頭上の舞台から生演奏されるジャズの歌声は、時として耳に障る音量ではあるものの。
 飛行機ではなく、地上に根ざした建物からバンコク見下ろすとき、この店からの景色が一番美しい。オフィスビルの明かりの群れ、行き交う高速道路をゆるやかに描く車のライト。蛇行するチャオプラヤが、その光の中に黒い帯として抜けている。
 三度目のバンコクで、二度目のシロッコに上ってきた彼が、懐かしむように、柔らかく言葉を発する。
 「これを見てバンコクが好きになったんだよね」

<参考リンク>
 ・Sirocco
 ・transiency /旅行記
 彼の旅はその後、タイ南部からペナン島、そしてインドネシアに入る。スマトラ島、ジャワ島をたどり、そして彼にとって特別な意味を持つバリ島を再訪し、ロンボク島まで至る。痛々しい旅行記、というものもこの世に存在することを、僕は知った。


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