溶け出した匂い

 北海道旅行から戻ったドンムアン空港で感じた何よりは、「ああ、この1週間ほどの間に季節が進んだな」ということだった。
 札幌や小樽は確かに寒かった。到着した日の札幌駅で「大雪で雪崩の危険があるため、札幌・小樽間は間引き運転をしています」というアナウンスが流れているほどだった。
 マフラーを巻いて冷たい風に首をすくめる、コートにすっぽり全身を包まれるという感覚も、実に久しぶりだった。寒い中に長時間いると、爪先がじんじん痛くなってくるのだということも、否が応でも思い出した。
 雪が溶けて濡れたジーンズの裾の惨めな感じなんかは、短期の滞在だからむしろ「体験」の域にあった。
 だけど、戻って来たバンコクはやはりバンコクだ。成田空港の時点で、上着は手荷物に突っ込んで、長袖のシャツだけの身軽な格好になってはいたが、夜11時過ぎに空港ビルの前でタクシー待ちをしながら、止めようもなく汗が染み出してくる。
 滝のように流れるというほどではない。周囲の湿度に同調するように、ぬるい水の膜が全身を覆うような、そんな感じだ。肌に密接しているため、こちらの一挙手一投足に着いてまわり、まったく逃れようがない。
 濃厚になり始めた蒸し暑さは、6日前の出発の時とは違うものだった。
 実は、バンコクの年間平均気温の差は、5度にも満たない。雨温図を見ると、気温のグラフは、ほとんど一直線。
 問題は、いわゆる不快指数の方にある。試みに、月平均気温と平均湿度から不快指数を計算してみたら、12月の76がもっとも低い数値で、年間9ヶ月は80を超えていた。不快指数の定義によると「75〜80:やや暑い」、「80〜85:暑くて汗が出る」である。いかに蒸し暑いか、ということだ。
 だけど、湿度にも利点はある。その一つが、何気なく飛び込んでくる匂いである。
 煙草吸いの友人が遊びに来たとき「こいうところで吸うと、美味い」と言ったことがある。
 「湿度が高い方が、煙に含まれる味や香りが溶け出しやすいから」という理由は、何も意図的に吸うタバコだけに限った話ではない。
 街の匂いが濃厚になる。ふとした拍子に嗅覚が鮮烈に刺激される。
 その刺激は、直接に官能的であると同時に、この街を初めて訪れた頃(もう10年近い前だ!)の記憶を、一気に目の前に引っ張り出すこともする。

<注釈>
・数値参照先
在タイ日本国大使館
・不快指数には風速が含まれないため、必ずしも体感とは一致しない(とは言え、バンコクで風を感じるのは、やはり寒季の間くらいなのだが)


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