暑季が来て咲く花

 特に気にかけて何かを見ているわけでなく、かと言って考え事にとらわれるているでもなく、ただぼんやりと歩いていて、目に映る風景がいつもと少し違うことに気が付いた。
 歩みを止めずに視線を上げた樹上に花が咲いていた。
 ノウゼンカズラの仲間で、タイ語ではチョンプー・パンティップ。高さ20メートルほどの木。覆い茂る葉はざらりと濃い緑色。そこにかぶさるように、薄い桃色。
 思わず、桜かと思った。
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 桜が咲いたと聞いて即座に、春という季節の感覚が呼び起こされる。包み込むような暖かな空気、隅々まで満たす明るく穏やかな光。そして、うねりのように胸に去来する、特有の心のたかぶり。
 春が来て桜が咲く。桜が咲いて春が来る。そのどちらをとっても、春の訪れがもたらす何もかもが、桜という花と一体不可分だった。ほころびの一つさえない、完璧に自然な認識としてあった。

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 「そう言えば、昨年もこの時期に花を見かけた」ことを思い出す。季節の移ろいと、開花という二つの自然現象が、同じ場所におさまっている。
 チョンプー・パンティップの彩りと、湿度を高め始めた空気のつながりを、4度目の暑季を迎える中、ようやくと気付くにいたった。
 「バンコクでは、暑季に入りかける頃、チョンプー・パンティップの花が開く」
 「ああ、そうだったのか」という感覚。独立してしまってあった二つの記憶が、他の存在を何も経由することなく、自分の身体の内側で結びついて、具体的な一つの発見となる。
 知らない土地に暮らすというのは、こういうことなのだ。ほとんど全てのことを、まったくのゼロから学ぶこと。

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 翻って、「桜の開花と春」という慣れ親しんでいた一義性も、実は別個の事柄として眺めることができるのだとも知る。

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 日暮れ時、通りすがりのシーナカリン大のキャンパスに、満開のチョンプー・パンティップを見かけた。薄青い夕闇を向こうに、淡い輪郭でほの白く浮かんでいた。
 どうしても気になって、その日の夜にもう一度、今度はゆっくりと歩いてみた。時折の緩やかな風に、花が舞い降りる。立ち止まって見上げてみる。
 朝顔を少し引き延ばしてすぼめたような形状の花が、ガクの方を地面に向け、くるくると錐もみしながらいくつも降ってくる。途中の葉や枝に当たり、ぱたぱたと小さな音を立てながら。


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