憧れ

 海で潜るたびに、魚のように水中を動き回ってみたいものだと思う。
 何百、何千と群れている魚が、一瞬間にくるりと向きを変える様。珊瑚や岩の小さな隙間にするりと入り込む様。こちらが必死に足を掻いて潮流に対抗している中、一点にじっとしている様。異界からの侵入者はただ眺めるだけで、真似ることは不可能だ。
 ああいうふうに泳げたら、さぞかしいい心持ちだろうな、と思う。
 「雨月物語」には、三井寺の僧が金の鯉に姿を変え、琵琶湖を思うままに遊泳する「夢応の鯉魚」という話が収められている。普段の功徳に目を留めた、湖の神の思し召しである。
 だが、凡百の人間が違う世界に入り込むためには、かなり大仰なものが必要とされる。
 クロロプレン製のウェットスーツや、チューブやボタンのついたBCD(Buoyancy Control Device:浮力調整装置)を着込み、腰には金属のおもりをつけたベルト。背中には空気を充填したアルミニウムのタンク。顔の半分をマスクで覆い、口にはレギュレーターをくわえっぱなし。両足にはのっぺりしたフィン。
 自由で無駄のない魚たちの動きを目の当たりにしながら、ふと翻って自分の姿のあまりの不恰好さに苦笑する。
 シミラン諸島の北方、ターチャン島で、初めてマンタに出会った。2メートル以上はある、白と黒のひし形の姿が、ひれの先をそっと揺らしながら、ゆったりと羽ばたくように泳いでいた。
 向こうからやって来て、目の前を少し通り過ぎたあたりで旋回し、そして再び彼方へ去ってゆくまでのわずか数分間の情景をじっと見つめていた。自分のレギュレーターから吐き出される泡の音さえ、そう言えばまったく耳に入っていなかった気がする。ただただその場に立ちすくむ(浮かびすくむ)だけだった。
 不思議なことに、うらやましいとも、ああなりたいとも、チラリとも思い浮かばなかった。自分の存在と比較するまでもなく、それは圧倒的なまでの優雅さだった。
 小一時間のダイビングから水面へ浮上し、船に上がった後でも、さらには上陸してからも、あの姿が頭から離れない。
 ライセンスを取得して8年経って最初の邂逅だった。だが、それ以来、無性に海に出かけたくってしょうがない。
 いつ、どことも知れない。会えるかどうかも分からない。それでも、わずかな機会に望みをかける。ただ、目にするだけでいい。
 憧れ、という感情だ。


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