夜のコーヒー

 「昼の情事」という響きに、思わずいろいろの好奇心がかきたてられてしまう。
 だが、そこに漂う独特の熱っぽい湿り気も、数時間経って「夜の情事」となれば、なんと言うか、普通過ぎて、あっさり消滅してしまう。
 似たようなところで、「朝/昼からビール」はハレだけど、「夕方からビール」だと、ケである。
 学生の頃の朝というと、さっぱりと諦めて寝ているか、あるいはドタバタしているかのどちらかだった。
 目覚めたら専門科目の試験開始時刻だったということがある。寝癖もそのままに飛び出して、自転車にまたがって坂道を転がり落ちるように一目散に教室へ駆け込んだ。カバンを開けたら筆箱が入っていなかったので、隣席の人に借りた。
 就職して新生活を始めるにあたって、心機一転決めたことがある。「朝方に、一杯のコーヒーをゆっくり飲むような、余裕のある生活にしよう」と。
 誰かと明け方のコーヒーを共にすることはいろいろと難しい面もあるが、自分一人で飲む分には、心がけ一つで何とかなる。
 まっさらな光に隅々まで照らされた台所で、湯を沸かし、カップを温め、ゆっくりと蒸れていく粉を眺め、その香りをいっぱいに吸い込む。
 一人で飲んだって、じゅうぶんに幸せな一杯。
 だが、これが夜になると、逆に困ったことが起きる。
 一度だけカフェインの錠剤を飲んだことがある。受験生の頃、授業で寝てしまわないようにと服用しているクラスメートからもらったもの。
 それは不思議な感覚で、眠気というものが確かに身体の内にあるのだけれど、真正の眠気として発露されるまでの間をつなぐ神経回路がぷっつりと切れた感じで、眠たいのだけど眠くないという状況に陥った。
 幸いなことに、それ以降薬剤のお世話になることはないが、当然ながらカフェインはコーヒーに含まれているのである。
 僕の場合、経験則から、午後8時を過ぎて飲んだコーヒーは、頑なに睡眠を妨げる。
 眠いはずなのに、けっこう疲れた感じがするのに、どうも寝付けない。おかしいなと思って、しまったそうだコーヒー飲んじゃったんだ、ということに気付く。
 目を閉じて夜の闇に包まれようともがきながら、高3の教室で感じた不思議な感覚に再び出会う。
 積極的に捉えて「眠れないのなら、読書をしよう」と枕もとの本を手にとっても、いずれにせよ眠気は、その息吹を感じられるごく間際までいるわけだし、肉体的、精神的に疲労しているので、文章がちゃんと頭に入ってくるわけではない。
 何ができるわけでもなく、ただ悶々と寝返りを打つだけだ。
 たぶん、羊はコーヒーの香りが苦手なのだろう。


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