叩いて広げて60年

 ノーイ市場。バンコク中心部の地図の左側、チャオプラヤ川が「C」の字を描いて蛇行する、ちょうどその下に当たる辺り。有名なランドマークでいくと、ロイヤル・オーキッド・シェラトンの北側。
 距離的には近いが、受け取るイメージは高級ホテルのそれとは対極にある。機械関係の零細な工場の多い路地街で、解体されたエンジンや、油にまみれた歯車が転がっている。口座を開いている銀行の支店が近くにあるからというだけの理由で、何度かぶらぶら歩いたことはあるものの、普段は取り立てて足を踏み入れたい場所ではない。
 ハードウェアなこのノーイ市場一帯は、しかし菜食の「ジェー祭り」の期間、白い人と黄色い食べ物屋でごった返す。清浄を表す白い服の人々と、黄色地に赤で「齋(ジェー)」と書かれた三角の小旗。
 ドロッとした甘辛いタレをからめて食べる厚揚げやタロイモのてんぷら。キャベツの煮込みスープ。銀杏やニンジンやシイタケなどを炊き込んだおこわ。大福を油で揚げたようなお菓子もある。一抱えあるアルミの丸い蒸し器が湯気を上げる中には、一口大の饅頭(小豆やタロイモ餡など)が蒸かされている。
 小さなタピオカの沈んだ熱々の甘い飲み物を、寺の門前で道行く人に振る舞う人がいる。善行、になるのだそうだ。それを配っているおじさんの黄色いエプロンには、赤字の太い毛筆体で「興」。途中で、冷たく甘いシロップに浮かべた春雨をつるりと喉に流し込む。
 限定された材料は、むしろ創意工夫を促すのかもしれない。屋台のガラスケースの中に盛られ、ラーメンの具になる焼き豚も、実は大豆で作ったそっくりさん。麺にも卵を使わず、カボチャを練り込んで黄色く染めるという徹底ぶりがおもしろい。タイ料理の味付けには欠かせないナンプラーも、魚由来なため、大豆を原料にする醤油に取って代わられる。
 人と屋台の群れを掻き分けるようにさらに奥へ進むと、もうすぐそこはチャオプラヤ川の船着場、という辺りで行列ができている。
 ニオイタコノキの葉を煮出したぐらぐら沸き立つ熱湯に大量の砂糖を溶かし込み、蜜をつくる。殻をむいたピーナツを敷き詰めたバットへ流し込み、固まるまで置いておく。
 「トゥップ・タップ」つまり「叩いて・広げて」という名の通り、板状になったそれを机の上に広げて、向かい合った二人組が大きな木槌でダッ・ダッ・ダッ・ダッと交互に叩く。
 すばやくリズミカルに叩き続け、薄く広がったら金属のへらを差し込んで机から剥がし、いくつかに折りたたんでまた叩くことを繰り返す。
 最終的に、細長い棒状に仕上げ、一口大に斜めに切りそろえていく。
 まだ蜜が歯にねちゃつくできたての熱々を口にするよりも、しっかり冷ましてからの方がずっと美味しい。ピーナツがぷんと香ばしく、パイのように層状にしっかりと空気を含んでいるので、歯ごたえもあくまでさくさくと軽い。素敵なくらい、コーヒーに合う。
 「変わらぬ味で、売り続けて60年」と手書きの看板にあるこの店は、年に一度、ジェー祭りの期間にしかこれを作らない。しかし、他の店に行けばいつでも手に入る。それどころか、このすぐ隣でも、まったく同じような作業で、同じお菓子を作っている店が並んでおり、それなりに買って行く人もいる。
 だけど、連れて来てくれた中華系の友人が言う。「このお店のは、特別。どれだけ並んでも、これを食べなくては」
 僕は食べ比べたわけではないけれど、その説得力ある気迫に、一も二もなく頷いた。


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