ナンプラー工場見学

 ナンプラーと言えばタイ料理、タイ料理と言えばナンプラー。ではあるのだが、個人的に利用範囲は正統なタイ料理にとどまらない。
 オイスターソースとともに野菜炒めに投入すれば、簡単に「それらしい」味ができあがる。他にも、ごま油と合わせて冷や奴のタレにしたり、目玉焼きにもかけたりするほど愛好していて、台所から欠かすことのできない調味料の一つである。
 改めて声を大にして言っておくと、「ナンプラー、大好き!」である。それは、「鰹だしに醤油とみりん、美味い!」とか、「ビール、最高!」と同じレベルで。
 その生産現場を実際に訪れる幸運に恵まれた。
 2週間ほど前、ちょっとした用向きがあって、僕の友人と、その会社の上司とその奥さんと食事をしていたとき、どういう話の流れだったか、奥さんから「そう言えば、うちの実家って、ナンプラーを作ってるんだけど、もし興味があれば見に来ない?」と誘われた。
 返答は、一も二もなく「よろしくお願いします」である。
 そしてこの間の土曜日。寒季ながら、外出を一瞬ためらわせるほどに太陽が強烈に照りつける朝、高速道路に乗り、一路、バンコクの西隣、サムットサーコーン県へ。タイ湾に面するこの地方には、「大洋」を意味する「サムット」を冠する県名がいくつかある。
 車を運転している友人は「この辺に潮干狩りに来たことあるわ。石灰の粉を砂浜の穴にぱらぱらと入れて、細長い貝が飛び出してきたところをつかまえんねん。ずいぶん熱中してて、気がついたら潮が満ちてきて取り残されそうになったの覚えてる」と言い、あはははと明るく笑う。
 小一時間ほどで、民家や寺が集まる集落の中、「ターチーン(地名)・ナンプラー工場」と看板の掲げられた一軒に入る。規模的には、まったく工場というより、普通の家である。車を降りたとたんに、ぷんと香る。もっと激しい匂いがするかと思っていたけれど、ずいぶんと軽やかだ。
 工場を経営されている、僕の友人の会社の上司の奥さんのご両親に招き入れられ、まずは居間へ。
 冷蔵庫からお皿を取り出して、「これ、うちの庭で採れたパパイヤ」と勧められた。冗談なのか、もしかしたら本当なのか、「ちょっと塩気があるからね」と。だが、僕の舌にはよく冷えた甘いパパイヤだった。
 魚を塩に漬けるのは年に一度だけ。今は取り立てて作業はないので、まずはじっくりお話をうかがった。
 ナンプラーには一番搾りと二番搾りがあり、前者の方は淡い琥珀色で完全に透明。後者はわずかに濁りが出る。一番搾りを取ったあとの残滓を加熱し、そこに再度一番搾りを混ぜて作るのだそうだ。
 「これがうちで作っているナンプラーだよ」と瓶が登場。ラベルには「純正ナンプラー」「FISH SAUCE ANCHOVY」「カタクチイワシ68%、塩30%、砂糖2%」などと記載されているが、右上の方に、正面を向いた女性の顔写真があって、「トーンジュア母さん」と書かれている。製造者の顔写真を商標にしている商品は、そう言えばけっこうよく目にする。
 と、同行の友人が素っ頓狂な声をあげた。「あっ、同じや!」。固定された視線の先には、まさに実物のその人、僕の友人の会社の上司の奥さんの母親。
 そりゃ当たり前であるのだが、自分がまさに現場にいるのだという事実が、ラベルに印刷された顔写を真経由することで改めて確認され、一層気持ちがたかぶった。
 「この家で昔から作っていてね、私も、そもそもは妻から製造法を教わったんだよ」と父上。「最近は濃い塩水に漬けたりする工業的な製品が多くて、中にはそっちが好きな人も多いけど、うちのは違う。ちゃんと塩を使うんだ。魚と塩は3対1くらいだね」
 「スーパーなどでここの製品を見かけたことがないように思うのですが?」
 「だいたい業務用に出してるからね。クウェイティアオ・ロット・デット(麺のチェーン店)なんかは、全店でこれを使ってるよ」「日本に輸出もしてるんだ。しかし彼らはなんだね、毎年必ず視察にやって来る」
 「オーヨー(厚生省管轄の食品・医薬品安全局の基準認証)って取ってるんだっけ?」と娘さんが尋ねる。
 「あんなもん、何の意味もないからやってない」と、父上はばっさりと。一消費者としては、取得していただきたい気もするが。
 一段落したところで、屋外に出て施設を案内してもらう。地面に埋め込まれるような形で、発酵漕がずらりと並んでいる。現在はコンクリート製だが、昔は木製の大きな壷を使っていたと言う。地上に表れている部分は膝の高さほどだが、深く掘られており2メートルあるそうだ。落っこちたら、ひとたまりもない。いや、塩分濃度が高いからぷかぷか浮くかもしれない。死海みたいに。
 「日光にさらすと旨みが深まるから」と、いくつかの層は蓋が外されていた。
 のぞいてみると、茶色い液体の中には、白い塩がごつごつ析出している。水面には半透明の(おそらく)塩の膜が薄く張っているので、全体的には液体というよりも、手を触れるだけで崩れるデリケートな鉱石のようにも見える。
 自宅部分の奥の側が、濾過や瓶詰めなどを行う作業場になっている。河口に面しており、手の届きそうな距離に大きな船が行き交っていた。
 作業場には、大きな炉があったり、サイフォンの原理を応用してナンプラーを取り出す道具などがあった。
 「ここのホースを持ち上げると、ほら、流れてくるだろう」と、実体験させてもらう。いつもは瓶の細い口からちゅうちゅうと注いで使っているものが、ホースから大量に流れ出すというのはなんだか不思議な感覚だ。
 見学を終え、再び居間に戻ると、冷えたペプシコーラがグラスに注がれた。
 「ところで、日本人もナンプラーを使うのかね?」
 僕は幾人かの知り合いの顔を思い浮かべながら、「ええ、好きな人は好きですね」と答える。「それに、日本にもナンプラーはあるんですよ」
 「へえ! 本当に美味しいものは、カタクチイワシからじゃないとできないんだが、日本では原料に何を使うんだ?」
 とっさに、僕は返答できなかった。(後日調べてみた。「いしる」はイカやイワシ、「しょっつる」はハタハタだそうだ)
 「それにですね」と、以前我が家でくさやに顔をしかめたことのある友人が話を接いだ。「ナンプラーのような、だけどもっとひどく臭い汁に漬けた魚の干物も食べるんですよ、日本人は。ナンプラーはいい匂いだけど、くさやはどうにも……」
 「みやげに、よかったら少し持って行きなさい。大瓶と小瓶があるんだけど、どっちがいい?」
 家の料理で使用するペースを考えて、「小瓶でじゅうぶんです。ありがとうございます」と答えたら、「二箱は持てるだろう」と、なんと300mlの瓶が12本入った箱を二つもいただいてしまった。お礼を言いながら、自分でも分かっていたが、頬がゆるんでにやけていた。

 

余談その1。刺身(白身がいいと思う)を一口に切って、大量のパクチーとネギのみじん切りと混ぜ、ナンプラー・マナオ・ごま油で和えると、単純だけどはっとするほど美味しい。味が染みるよう、しばらく冷蔵庫に入れておくとよい。瀬戸内のきゅっと身の締まった魚でやったら最高じゃなかろうかと思いながら、ぬくぬくとゆるい身に育ったタイの魚で作ってはビールのあてにしている。

その2。ざく切りした黄ニラともやしを鉢に盛り、ラップをして電子レンジ。やはりナンプラーとごま油とマナオ、それに酢とオイスターソースで味付けると、これまた手軽に美味しい。しっかり酢を利かせる方が、全体の味が立つ。黄ニラだけでは味気なく、モヤシだけでも物足りない。両方を一緒に用いるのが勘所。


戻る 目次 進む

トップページ