相互リンクが懐かしい

 「相互リンク」という言葉が懐かしい。
 取り巻く世界が音をたてて拡大していく感覚が、その中で誰かとつながっているという手ごたえが、懐かしい。
 それはもはや、10年前のノスタルジックな遺物に過ぎないのだろうか。そこにあった温かみはもう失われてしまったのだろうか。
 時に、20世紀の末。おそるおそる、それでも、これまでに出会ったことのなかった可能性が秘められているという期待を感じながら、「ホームページ」というものを作り始めた時代。パソコンという機械を使用する意味合いが、大きく転換し始めた頃。
 何かおもしろいサイトに出会う一つの方法は、検索エンジンで表示された結果を片っ端から眺めていく、ということだった。さらに、直接的な人と人とのつながりも役立った。一つ気に入ったものに出会うと、そこでリンクされている先をたどってゆく。サイトを作っている人の趣味嗜好が反映されたリンク集だから、有効性の高い方法だった。
 僕のサイトと共通する内容で、おもしろいと思うものに出会ったら、「相互リンクのお願い」というメールをよく出した。逆に、先方からそういうメールが舞い込むと小躍りしたものだ。
 時代は、進む。メガから、ギガを経てテラへ。MozaicはFirefox。あるいは、漢字TalkがTigerへ。慣習的な時間感覚からすると、さほど長くはない10年前後という期間に、この世界は急激な変化を遂げた。個人サイトどうしの相互リンクの意味合いも変貌した。いや、むしろそれは地を這うほどまでに降下したと言えるかもしれない。
 Googleに代表される、ロボット型検索エンジンが日々強化されている。誰の手を借りなくとも、ロボットが巡回して収集した情報を、ふさわしいキーワードを打ち込めば、瞬時にリストとして手に入れることができる。SNSや、トラックバックを利用したブログのつながりも、また有用である。
 人であれ機械であれ、「介在」を通して相手とつながっていくという原理そのものは変わらないものの、労力の大部分を、システムに委ねることができるようになってきた。
 それでも、今でもやはり、「相互リンクのお願い」と題したメールを受け取ることがある。しかしそこには気になることがある。
 最初は偶然だろうかと思っていたのだが、なぜだろう、そこにあるのは怖いまでに同じ雰囲気の同じ言葉の羅列。未知の他者へ依頼をする文面として内容的には適っているし、それなりに丁寧ではある。ただ、「てにをは」まで同じものを何十通も受け取ることの奇妙さ!
 同じことを事務的に表現するにせよ、個性はどうしたって出てくるはずだ。それが、これらのメールから発せられる個性(という言葉を敢えて使うとして)は、ものすごく狭い範囲に集中していて、結果的に、同じ人が書いたのではないかと訝しく思わせられるほどなのだ。結婚式の招待状の方が、まだ多様性があるように思える。
 しかしどんな理由にせよ、僕のサイトに興味を持っていただいたことには感謝の念を抱く。ともあれ、差出人のサイトを訪れてはみるのだが、これまた何かのテンプレートそのままなのだろう、そっくり同じ作り。表現方法や構造も似通っている。
 主題はそれぞれなれど、どこかに元締めというか、マニュアルみたいなものがあるのだろう。そういうパッケージを販売するサービスがあるのかもしれない。
 さらに、SEO(Search Engine Optimization;検索エンジンで上位に表示されるよう、サイトの作りを最適化すること)なのか、百も二百ものサイトへリンクが貼られている。他は知らないけれど、僕のところのサイトの紹介には、全てうちのトップページのmetaタグ内に埋め込んである紹介文がそのまま使われている。
 「またこれか」と、げんなりした気持ちになる。ブラウザを閉じ、そのメールを特定のメールボックスに移動しておしまい。(この手のメールが増え始めた時期から、「リンクのリクエストには対応していません」とサイト内に記している)
 世界の全き善意性を信じるわけでもないし(概ねは信じているが)、参加者が増えることは、それだけ可能性が増えることであり、歓迎こそすれ嫌がる理由はどこにもない。心底、そう思っている。
 簡単に、つまらないサイトが増えたとは言えるわけがない。たぶん、総量が増えたことによるのだろう。今でも、新しく胸躍るサイトに出会ったときの喜びは頑として存在する。その割合は昔と比べて増えているのどうか、個人的感覚でいくと、一定のような気もする。
 実は最近、立て続けにそういうサイトに二つばかり出会い、その一つには感想を送ってみた(すぐに返事をいただいた)。
 個人的に「はてなアンテナ」に登録して、更新をチェックしている他は、ごく少数の友人に紹介したくらいだ。相互リンクはしていない。


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