知らない街の既視感

 知らない街に着いたのは、朝だった。
 ほんの6時間ほど前、搭乗時のタラップでは汗ばむほどだった。夜を徹して飛ぶ飛行機で、冬の国へ。到着した空港のゲートで、用意しておいた上着を羽織った。
 iPod nanoから耳に流れる音楽は、うたた寝の向こうにかき消える程度にかすかで、レールや車体の音と交じり合い、遠くに過ぎてゆく。途切れた僕の時間とは関係なく、列車は市内へ向かう。
 冷たい風に身震いしながら、ホテルにチェックイン。ともあれ、熱い湯を張った浴槽で思い切り手足を伸ばす。スーツケースから、たたんだ服を取り出し、さっぱりと着替える。意識がようやくはっきりとする。そして、今日という一日のことを考える。
 まだ朝だ。時間はたっぷりとある。見知らぬ街を歩こう。
 ホテルを起点に、何事かのありそうな方へ足を向ける。近くにビールの買える場所を確認する。駅との相関を理解する。出口も分からない路地に、足を踏み入れる。美味い店もそうでないのも、全て等価で迫ってくる。
 知らない街、知らない通り、知らない交差点。知らない名前のビルの間に見上げる空は、さっぱりとした冬の水色。
 所用で訪れた天王寺。
 けっこう長い間、関西に暮らしていたけれど、大阪と言えば梅田だった。
 遡って、高校の所在地は天王寺区ではあったが、駅は玉造。なので、天王寺も阿倍野もほとんど縁がなかった。この辺りは、わざわざ足を運んで出かける場所ではなかった。
 散発的ないくつかの記憶はある。動物園とか、市立美術館とか、なんとなく思い出す。そう言えば、通天閣にも一度は上ったことがあった。旅の知り合いに、休日の昼間に、時が止まったような居酒屋に連れて行ってもらったこともある(大いに酔っ払って、梅田からタクシーで西宮まで帰った)。だが、それぞれはあまりに短期的で一時的過ぎて、広がりを持ち得ない。
 それでも、不思議なことに、見知った場所というのがあるものだ。たとえばそれは、スターバックス・コーヒー。
 ちょっと一息つこうと思って、Hoopという小洒落たビルの一階。もちろん、そんなビルがあることも訪れて初めて知ったのに、同じ内装の店内で、同じ木の椅子に座り、口に運ぶのも同じ白いマグカップ。
 コーヒーの香り漂う暖かな空気の中で、色々のことが分からなくなる。眠気が正確な判断を妨げるのに一役買う。読みかけの、ペルーの古代遺跡に関するミステリを手にしたまま、深夜便の疲れからか、ふっと引きずり込まれる意識。近くの席に座る外国人の英会話が耳に入って、わずかにこちら側に残った認識が、「ここはバンコクである」と解釈を下す。
 地理的要因の意味性を極端なまでに薄めた世界レベルでの同一性が、既視の感覚を呼び覚ます。そうかもしれない。コンヴェント通りの入り口、エンポリアムの2階、あるいはスワンナプーム空港だろうか。いや、もしかしたら、シアトルかもしれないし、北京の故宮博物院にある支店でもいいわけだ。
 示唆される交換の可能性。緑地に白で描かれたトレードマークのセイレーンは、天王寺にいると同時に、世界の多くの街角や、オフィスビルの一角で微笑んでいる。僕が熱いカフェ・ラテを飲んでいるのも、世界のどこか一点であり、世界のどこでもあり得る。


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