ジョギング

 ほんの3、4年前まで、大食が続くと、まず頬の線が丸みを帯びてきた。髭を剃る目的で毎朝のように鏡を見るから、否が応でもすぐに気が付いた。汗をかく運動は大嫌いだから、意図的に食事の量を減らした。そうすることで、数週間もすると、元の状態へと戻っていった。
 ところが、いつの間にかその理論が成立しなくなってきた。
 顔の輪郭にさしたる変化はないのに、ふと気が付くと、腰掛けたときにベルトがきつい。ウェストをしぼった形のシャツに違和感を覚える。ちょうどよいサイズだったはずのTシャツが、ぴっちりと体に張り付く。おい、なんだ、なんだよ、いったい。僕の周りでだけ、ビッグクランチが起きているのか?
 宇宙的事象に逃避せずとも、腹が出てきているのだという明快な事実がそこにはある。ただ、それを認識して、さらに事実として受け入れるまでに、多少の時間が必要とされた。
 とどめはゴールデンウィークの石垣島旅行だった。ダイビング仲間と、毎夜、文字通りの暴飲暴食。石垣牛の焼肉、近海で獲れたマグロの寿司、地ビール、泡盛。駄目押しに深夜の八重山そば……。
 インプットを減らすだけでは、とてもではないけれど追いつかない。
 切羽詰まった中、仕方なく、本当に仕方なく、身体を動かすことにした。この状況の中で読んだ岩波新書(「人はなぜ太るのか?肥満を科学する」)に、理路整然と、ジョギングが薦められていたという背景もある。
 ジョギングやマラソンというと、個人的には父親がすぐに思い起こされる。とにかく、昔から、黙々と走ることが好きな人なのだ。還暦間近の現在でも、週に50kmは走り、各地のフルマラソンや100kmマラソンなどにも定期的に参加している。基本的に汗をかくことは嫌いな息子の目からすれば、きわめて近しい血縁にあることが信じられない。
 しかし、ぽっこりした腹を目にする悲しさはそれをも軽く凌駕する。「ぽっこり」という擬態語には、平和で明るい可笑しさが含まれているが、それも我が身のこととして降りかからない限りにおいてだ。
 2ヶ月ばかり実家暮らしをすることになった機会を捕まえて、朝のジョギングへの同行を願い出た。
 なるほど、日の出すぐの空気は新鮮で気持ち良いもの。ちょっとした林の中や、川べりを行く清涼感というのも久しく忘れていた感覚だ。家に戻ってきてからの朝食も美味い。
 数日続けていると、身体が軽くなったような気もする。
  だが、すぐに困ったことにも直面した。早朝に起きるのが一番つらいと言えばつらいのだが、走り始めてからの「暇」も看過できない問題だった。貧乏性なので、ただ走っている というだけのことに、ものすごく飽きてくる。何か他のことをしていないと身がもたない。イライラした感じに、思わず「うぁーっ」と叫んで走り出したくなるほど退屈だ。(いや、確かに走っているのだが……)
 師は、そんなことはないのだろうか。
 「なあ、走ってる最中って何考えてんの?」
 「色々」
 「それって、おもろい?」
 「うん、おもしろい」
 話にならない……。
 そこで、iPod nano(初代)用のアームバンド(ピンク色)を買った。ほとんどの日を父親に起こしてもらい、落語やなんかを聞きながら、なんとかかんとか2ヶ月。
 結果的に言えば、体脂肪率はすぐにある程度落ちたが、体重はほとんど変化がなかった。ベルトの穴が一つ元に戻ったのは、今後に向けての明るい徴候だろう。ただ、4月の頭に買ったばかりの、ウェストの細いシャツは、今もずっとクローゼットにぶら下がったままだ。


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