えぃー、てなわけで

 小学校4年生の夏休み。伊丹発、台北行きの日本アジア航空。初めての海外旅行。まさにこの前日に墜落した日航機と同じ機種である不安を抱きつつも、次から次へ勧めてもらえるジュースが子ども心に嬉しかった。ひたすら杯を重ねる中で、ヘッドフォンから聞いていた機内番組が「目黒の秋刀魚」
 最近では、ポッドキャストに落語の番組がある。聞き流しながら、すっと頭に入る気楽さがあって、軽妙な笑いで気持ちが和らぐところが良く、特に週の始めの出勤時に大変にありがたい。
 今回、2ヶ月ほどの日本滞在の間にやっておきたいことの一つに、演芸場へ足を運ぶ、というのがあった。
 東京に出たついでに、「たまに来る」という友人に連れられ、上野の鈴本演芸場へ。ガイドしてくれる彼女は、見るからに睡眠は不足し、酔いのまだ覚めていないような、くすんだ目の下の色をしている。飲み明かしたまま始発すぐの山手線を何周かしてようやく戻った家で、辛うじて数時間の睡眠をとってきたばかりとのこと。せっかくの休みの日に……と、申し訳なく思う。
 場内の飲食は自由と事前に聞いていたので、近くの松坂屋で寿司とビールと崎陽軒のシウマイを買って万全の体勢で臨む。
 雨のそぼ降る日曜の昼下がり。開演時刻から少し遅れて入ると、「……わ・か・よ・た・れ」まで並ぶ席は満席に近い。観客の平均年齢はゆうに50を越えていよう。全体的に、ゆるやかでなごやなか感じ。
 舞台上には、派手な衣装を身につけ、高音の声で客と掛け合いながらマジックを披露する松旭斎美智。
 続いて、桃月庵白酒、桂文楽。漫才コンビのすず風にゃん子・金魚。
 古今亭八朝の辺りで、気付くと一時間ほど経過している。進行と言い、バリエーションと言い、飽きることがない。目の前のビールも飲み干されていく。座席に沈み込んでいた友人も、そろそろと缶に手が伸び始めた。
 三遊亭金馬の登場で、ようやく見知った名前に出会う。
 カンジヤマ・マイムによる、首や顔のくねくね動くパントマイムに驚嘆するも、その次の三遊亭白鳥が枕をやっているところで、個人的に時間いっぱい。羽田空港へ出て、帰宅。
 それから十日ほど過ぎたある夜、大阪でふっと時間が取れたので、これまた一度はと思っていた、天満・天神繁盛亭。
 桂三枝が中心となり、寄付を募ってできた大阪の演芸場。演芸場というものは、東京にはそれでもいくつか残っているが、大阪には久しく絶えていた。
 館内には二階席もあるが、全体的に非常にちんまりしていて、小屋と呼ぶ方が近い。舞台がほんの目の前にある。ここは飲食禁止。天井からは、寄付をした人たちの名前が書き込まれた提灯がずらりと並ぶ。
 今夜は「新世紀落語の会」ということで、披露されるのは創作落語。桂三弥、桂あさ吉、桂あやめ、笑福亭恭瓶、桂米二。
 「(古典)芸能」について、知識も経験もまったくないけれど、こうして見ていると、いくつかのことが実感される。
 一つは、ベテランほど上手いということ。当たり前だが。こちらの気持ちをすっかり委ねてしまえるところが良い。気負いや勢いがすっと抜けていて、観客の事情を十分に勘案する余裕も持っている。だから、僕らは安心して笑うことだけをしていられる。
 逆に若い人には独りよがりを感じることがある。まだ笑っている途中なのに、それを待たずに進行される。置いてけぼりの寂しさや苛立ちを覚えたり、「着いて行かなきゃ」と焦らされたりする。あるいは、最初から最後まで声が大きすぎる人もある。聞いてる方も疲れるし、高位での一本調子にはすぐに飽きがくる。
 それに、やはり「生」の価値というものがある。媒体を通じることなく、その場の雰囲気を自分が直接に感じること。
 演者の仕草や表情を目の当たりにする。客の反応を受けてその場で醸成される間合いがある(二次的に見聞きするときは、それは単純な沈黙に置き換えられることが多い)。見ている人たちの熱気が一体感を形成する。自分が「おもんないなぁ」と思っているときには、たぶん隣の人もそうなのだとはっきり分かるし、こちらが笑い声を上げたときには、他者のそれと混じり合って、自分一人が実際に感じたよりも、少しおまけされて楽しくなってくる。
 大した舞台装置や道具もなく、ほとんど身一つで、一生懸命に芸を披露する。だが、観客である僕らはそんな一生懸命さなんて、気にもかけない。ただ、「くすっ」「ほぉー」「わはは」となって、最後に「いやー、おもしろかった」と大きな拍手を返すだけ。この上なくシンプルだ。

 

ところで、ラーメンズに「新噺」というコントがある。「一人で複数人を演じる」という落語の根本的芸性とでも言うべきものが、ここでは逆手に取られている。彼らの新奇な発想には、感嘆させられることが多いが、これもその一つだった。

 


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