地元のバー

 地元への郷愁、という感情の持ち合わせがない。ポケットをまさぐっても、かばんをひっくり返しても、かけらさえも見つからない。そもそも「地元」という観念からして希薄なのだが、内的には個人の性向でもあろうし、子ども時代の2度の引っ越しという外的要因もあるように思う。
 敢えて呼ぶなら、現在も両親が暮らしていて、これまでのところ僕個人としても、一番長い時間を過ごしていた町が地元ということになろう。
 子ども時代の記憶では田んぼだった場所の多くは、今ではマンションか駐車場に姿を変えている。スーパーともデパートともつかない、この場所にあっては比較的大きかった商業ビルも、とっくに更地だ。阪神大災の影響を、中心地ほど受けた場所ではないが、あれは確かにこの辺りの様相を変える一つのきっかけでもあった。
 ここを基盤にして、ここを世界として生きていた頃はさして思わなかった。それはたぶん、地方の人が都会に憧れるほどには、都会との距離的ギャップがないという立地のためかもしれない。だが、今は、郷愁がわくどころか、訪れるたびに衰退を感じざるを得ない。
 もの悲しいというよりも、むしろ静かな停滞感に覆われていることの方がより心を寒くさせる。その感じは、年を経るに連れ、ひどくなっていく一方だ。
 コンビニ前にたむろする品のない中学生(僕が卒業した学校の)。ジャージ姿で行き交ういい年をした人たち。和菓子屋の店頭で煙草をふかす職人。そういうものに象徴される町の姿が、僕の地元である。

 「確かに、○丁目の人は、あまりご存知ありませんね。駅を下りてすぐ右側に曲がってしまわれるので」
 と、バーテンダーが静かに言う。
 阪急電鉄神戸線のとある駅の出口から道を渡り、わずかに左側に寄った所に建つ小さなバー。「なんでこの駅前にこんなバーがあるのだ」と驚くに値する一軒がある。
 あるとき、僕が帰省したら「いい店があるんだ」と父から誘われた。最初に連れて来られたとき、父はドライ・マティーニを頼んでいた。マスターは、直方体に切り出した氷をジンで洗ってから用い、バースプーンでステアし、最後にレモンピールをさっと搾った。
 「ドライ・マティーニは、本来ステアするものなんだ。007の映画でジェームズ・ボンドが『シェイクで』って言ってるからそっちが広まってるけど、ということは、知ってるよな」
 こういう些末な、人生の本流にはほとんど役に立たないことが、彼の口をついてたまに飛び出す。披露される知識は、この年になっても反抗期から抜け切らない息子を素直に感心させる。
 2ヶ月の居候生活が果て、再びバンコクへ戻る日の夜。関空発の便は、午前1時過ぎの予定。
 両親と最後の夕食を共にした。母親は先に帰宅。父親と僕はまたこのバーを訪れた。
 荷造りはまだ完了していない。迎えのタクシーは10時過ぎに予約している。だが、したたかに飲んだ。
 「まずいかな」というかすかな思いをカウンターで覚えたのを最後に、記憶は途切れる。
 切り替わって次のシーン。僕は電車に乗って眠っている。車体の揺れで、抱えていたスーツケースが転がって目が覚めた。近くの席の人が受け止めてくれたことに礼を言った。
 えっと、ここはどこだ? もしかして、まずい状況じゃないのか? 米原へ向かう新快速に乗ったりしていないか?
 どうやって家に帰って、どうやってタクシーに乗って、どうやってJRに乗って、どうやって大阪駅で乗り換えたのか、さっぱり覚えていない。だけど、ちゃんと予定していた最終の関空快速に乗っていた。しかし、状況が把握できてもしばらくは、背筋に冷たい感覚が残ったままだった。
 父親と飲むとこういうことが多い。安心しきってしまうのが、むしろ危険なのだ。
 いつも通り人気のない、薄暗い深夜の関空。ラウンジへ入ってシャワーを浴びて、PowerBook G4を広げて、とりあえず実家に「無事、関空到着」のメール。本来なら、バンコク着を報告するべきなのだが、それ以前の問題だ。
 後日、母親から聞くところによると、やはりあの夜はかなりまずかったらしい。
 「二人ともえらく酔っ払って帰って来た。わけのわからないことに、お父さんはそのまま寝てしまうし、あんたはあんたで、スーツケースに無理に荷物を積み込んで上から体重かけて押さえて、壊すんじゃないかと思った。タクシーの運転手さんがわざわざ玄関まで上がってきてくれたから『すいません、もうすぐですから』と私が謝った」
 そして、これは父親の談。「母さんな、駅前を通りかかるたびに『ここが我が家の男どもを駄目にしている店か』と、キッと睨みつけているらしいぞ」

 


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