軍事政権とビール

 土曜夕方の居酒屋が事の発端だった。
 朝の8時半からテニス。昼前にタクシン橋をトンブリー側に渡ったところで一つ、午後にシーロムで一つ、そして夕方にはカセサート大の辺りにもう一つ用事があって、市内を駆けずり回っている内に、一食も取らないまま日暮れを迎えた。
 お腹も減ったし、「朝からテニスをした」という充足感をようやくと完全なものにするためにも、必要なのは良く冷えたビールだ。スクムウィットにある、2週に一度は出かける居酒屋へ。
 「いらっしゃいませー」に続いて、カウンターの中から不吉な知らせが告げられる。
 「今日、お酒売れないんですよ」
 発せられた言葉が、まだ意味として認識できない内に、追い打ちをかける別の店員。「昨日なんて、警官の立ち入りまであって」
 12月23日に民政移管のための総選挙が行われる予定だが、それに1週間先立つこの土日が期日前投票にあてられており、金曜の夜から酒類の販売が禁止されていたのだ。仏教関係の祝日や選挙の投票日には、飲食店や小売店に関わらず、外で酒を買うことができないというのは覚えてはいたが、まさか期日前投票にまで適用されていたとは。

 これは、民衆の自由に対する、国家による挑戦である。憎むべし、軍事政権。

 僕は果敢に立ち上がった。失われた自由をこの手に取り戻すために、いざ。
 孤独に国家権力に立ち向かう僕に、シンパが現れた。一緒に居酒屋で飲むはずにしていた友人が情報を寄せてくれる。「あのさ、たぶんやけど、個人でやってる小っちゃい雑貨屋とかだったら売ってくれると思うよ」
 幸い、僕の家の近くにはその手の商店が建ち並んでいる。目についた一軒へ潜入。
 「いえいえ、当たり前のことですよ、ビールを買うなんて。何か問題でも?」という涼しい顔をして冷蔵ケースを開けて大瓶を取り出そうとしたら、店のおじさんがめざとく見つけてこう言った。
 「今日は駄目だ」
 くじけない。すぐ近くのもう一軒へ。
 「販売できないんですよ」
 「いや、まあ、知ってるから来てみたんだけど」
 「うーん。でも、ちょっとね」
 だが、そのおじさんは、レジスタンスの闘志へ同情を寄せ、親切にもこんな情報をそっと流してくれた。「あのね、あっちの路地の入り口の店に行ってごらん」
 3軒目。片手に2本ずつ、合計4本の大瓶を取り出して、帳場の台に乗せてみる。そこにいたお母ちゃんと娘らしき二人が一瞬困るような顔をした。
 「すぐに家に戻る?」「はい」
 「お宅、どこ?」「76です」
 「あのコンドミニアムね」と、娘さんの方が即時了解。どうやら可能性があるようだ。ただ、そのままでは売ってもらえない。娘さんが、その4本を新聞紙でくるむ。
 実は、明日、友達夫婦(そろってビール好き)が子どもをつれて遊びに来ることになっている。そのための買い貯めもしておきたい。だが、新聞紙にくるむ作業を見守っている間に、心臓が鼓動を早める。いつ秘密警察に急襲されるか分からない。それは、果てしないほど長い時間に思われた。一刻も早くこの場から逃げ出したかった。
 街角に潜むスナイパーの目をかいくぐり、無事帰宅。シンハが1本と、ハイネケンが3本。まず1本飲んだ、この上ない、勝利の美味だった。
 そして日曜日。友人夫妻とお子さんを迎える。冷凍庫から取り出したジョッキに勝利を注ぐ。だが、当然の帰結だが、あっという間に枯渇。
 僕は、再び新たな戦場に出かける決意を固めた。
 うちを出て通りを渡った向かい。昨日とはまた違う店。さすがに二日目ともなれば、心の動揺も落ち着いている。冷蔵ケースからビールを取り出して……。
 店の人が顔を見合わせて会話をしている。僕は全神経を耳に集中している。
 「今日って売っちゃっていいんだっけ?」「あかんはずよ」
 そして、僕に声がかかる。「あのー、売れないんですけど」
 だがしかし、僕には、秘密兵器があった。何の戦略もなしに、敵陣に切り込むほど命を粗末にはしない。
 僕は不自然さを気取られないように、極めて明るく言葉を発した。
 「ホワット?」
 同時に、ひょっと肩をすくめてみる。いやー、タイの事情も、タイ語も分からない外国人なのですよ、僕は。
 店の人が困っている。(申し訳ない!)
 顔面の筋肉の全てを動員して、ありったけの笑顔でじっと待つ。
 面倒くさいやつと関わりたくないという判断から、さっさと売って追い出してしまおうと思われたのかもしれない。僕が肩から提げている黒いトートバッグを指さして「これに入れてもいいかしら?」と、身振りで尋ねられた。僕は静かにうなずく。実は作戦は極めて緻密に描かれていた。こうなる状況を想定して、大瓶が何本もすっぽり入り、しかも外から中身の見えないこのカバンを持ってきていたのだ。

 さて、今日は12月23日。総選挙当日。テレビでニュース速報を眺めながら、片手にハイネケン。冷蔵庫には在庫もたっぷり。
 あんな思いはもう十分だ。今回はちゃんと木曜の内から仕入れておいたのだ。


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