歯医者で鼻歌を

 32年と少々この世で暮らしてきて、つい先日、それまでのほとんど全てがひっくり返されるほどの経験をした。
 何でこれまで誰も教えてくれなかったんだろう。いや、ただ僕が勝手に忘れていただけなのかもしれないな。
 非常に幸いなことに、生まれてこの方、虫歯をやったことがないので、検診、乳歯抜歯、歯石除去、親知らず治療というくらいしか、歯医者と関わる点がない。
 虫歯の痛みも伝え聞くだけで、想像力が及ぶ向こうにある。怖い歯科治療という典型的なイメージも、ただのイメージとして持ち合わせているに過ぎない。
 ただ、痛みよりも、僕は喉の感覚に弱くて、口をあけている間ずっと、嗚咽をあげそうになる状態で我慢を続けることが、それなりにつらい。
 つい1週間ほど前、事情があって歯石除去とクリーニングのため、急遽飛び込んだシーロム通りの近くにあるクリニックで、例の椅子に腰掛ける機会があった。なかなか小ぎれいで明るくて、スタッフの対応も心地よい。担当してくれたのは、すごく可愛い歯科医師のお姉さんで、たまに鼻歌まで飛び出すほどだった。何かいいことでもあったのだろうかと、こちらまで楽しくなってしまう。
 よだれかけをあてがわれ、あんぐり口を開けた状態で横になる。キュゥインキュゥイン鳴る道具で歯石を削りながら、細いホースで口にたまる水分が排出されていく。途中、喉の気持ち悪さに絶えられなくなって、片手を上げてストップ。電動で椅子が持ち上がるよりも上体を起こす方が早く、しばらくえづいた。
 涙目を押さえて、再び処置に戻る。
 先生が、玉の転がるような声で、「鼻でゆっくり息してくださいねー」と言う。素直に言うことを聞き、それまでの口での呼吸から切り替える。
 と、どうだ。まさにその瞬間。モーゼが紅海を割ったような衝撃に襲われ、アルキメデスが裸で飛び出したような興奮を感じ、人類が月に足跡を刻んだような感動が全身を振るわせた。リンゴの落下を目撃したニュートンの驚きもかくやと思われるほど。
 鼻で呼吸をすることで、喉の気持ち悪さが激減。物心ついてからこの方、ずっとつきまとっていた歯科治療の悩み(虫歯やその他の患者のそれに比べれば格段に少ないのだろうが)が、たった一言で霧散した。先生と一緒にハミングしたくなるくらいだった。
 「歯磨きをしましょう」という啓蒙と同じくらい、あるいはそれ以上に「治療中は鼻で呼吸しましょう」と、もっと広く知らしめてもいいと思う。あるいは、そんなことは誰もが知っていることで、僕だけが世界の潮流から取り残されていたのだろうか?
 コーヒーを常飲しているので、ある程度時間が経つと、どうしてもステインが気になる。これまでもある程度定期的に通院していたとは言え、一年に一度ほどのこと。だが、これだけ気楽にハッピーに白い歯が取り戻せるのなら、半年に一回でも3ヶ月に一回だって悪くない。惜しむらくは、白衣の彼女の名前を聞きそびれたことだ。


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