最近ひょんなことから、我が身が金属の小片とのっぴきならぬ関係になった。
しかしそもそも、肉体感覚と金属というのは相反するものだが、それでも、日常的に身体と接する金属というのはそれなりに思い浮かぶ。ピアスなぞ、わざわざそのために穴を穿った上で身体の内部を貫通させる。だがこちらは、自由意志で取り外しができるという点において大きく異なる。眼鏡のフレームや腕時計もそうだ。歯に被せる金や銀というのもあるが、皮膚感覚とは違うのでまだ救われる(のだろう。経験が無いので想像)
しかしその数グラムの金属は、常に僕の皮膚に張り付いている。確かに、物理的に取り外そうと思えば容易なことなのだが、不必要な摩擦が発生することが明白なので、極力そのままにしておくことが望ましい。
プラチナ製の小さな輪が、左手の薬指から離れない。裏側にはイニシャルとか日付とかが入っている類のだ。
物珍しさもあってだとは思うが、その存在が常に気にかかる。しかも、時折は自己主張してくる。右手でカバンを持っているから、左手でドアノブを開けるときにかちゃんと当たる。コーヒー豆を挽くとき、ハンドルを回す右手に対し、左手はしっかり本体を押さえる。握る際、木製のそれにコチッと当たる。テニスボールをバックハンドで打ち返そうと、左手も使ってグリップを握るとそこに今でなかった感覚に気付く。これが左利きの人だったら、マウスを操っていてもかちゃかちゃ触れるのではないだろうかと、勝手に気を回してしまう。
初めの数日は、これから一生外すことがないのだろうと、しみじみと思うところがあった。だが、その考えは現実的でないことをすぐに知った。
まず、食事を作るときは衛生面の理由から外すことにした。糠味噌を混ぜるときなんて。洗い物をするとき、特にクリスタルグラスを扱うときには、軽い衝撃でも当たり所によってはそのまま割れてしまいそうで怖いので、やっぱり外しておく。
常時「指輪をする」という新しい習慣にまだあまりなじんでいないせいで、外しっぱなしのままになってしまい、しばらくしてから「しまった」と思い出すことが多々ある。
結婚指輪を紛失するというのは一大事だ。物としての価値も低くはないが、それ以上に、世界で一つだけの意味合いを持っていて、それは仮に同じ物を求めたとしても、新品のフィルムと同様に、何の意味も持たない。
しかし、探すべき場所は分かっている。台所の流し台の上、目の高さにある棚。胡椒挽きの左横。