探し物は胡椒挽きの左隣

 コンタクトレンズをよく失くす。買って1ヶ月も経たない内に排水溝の向こうへ消えていったことも一度や二度ではない。1万円札がざーっと暗黒に飲み込まれていく切なさ。結果、数日は眼鏡生活を送ることになる不便さ。毎度のことだけど、どんより暗い気分に包まれる。
 とは言うものの、自分の不注意で起きたことで、しかもそれは自分のお金で取り返しがつく範囲のできごと。緑色のテニスコートを、黄色いボールが気持ち良く行き交うラリーみたいなものだ。一つ打ったら一つ戻ってくる。原因と結果。打ったと思ってぽっと中空に消えることもないし、二つも三つも相手から返ってきてあたふたすることもない。
 バックパッカー時代、ゲストハウスの部屋を後にするとき、何よりも気にかけていたのが撮影済みのフィルムだった。パスポートや航空券の紛失もかなり困ったことになるけれど、手立てはある。ただ、フィルムだけは復活が利かない。同等のものを取り戻す手段は永遠にめぐってこない。深夜、寝込みを襲ってくるかもしれない泥棒に対して、「カメラは盗んでもいいけど、白い半透明のケースに入ったフィルムだけは置いていってくれ」と半ば懇願するほどにさえ思っていた。
 物というのは、値段の問題はさておいて、一般的に買い直しが利く。だが撮影済みのフィルムのように、物としての性質の上に、代えがたい価値が付加された物もある。

 最近ひょんなことから、我が身が金属の小片とのっぴきならぬ関係になった。
 しかしそもそも、肉体感覚と金属というのは相反するものだが、それでも、日常的に身体と接する金属というのはそれなりに思い浮かぶ。ピアスなぞ、わざわざそのために穴を穿った上で身体の内部を貫通させる。だがこちらは、自由意志で取り外しができるという点において大きく異なる。眼鏡のフレームや腕時計もそうだ。歯に被せる金や銀というのもあるが、皮膚感覚とは違うのでまだ救われる(のだろう。経験が無いので想像)
 しかしその数グラムの金属は、常に僕の皮膚に張り付いている。確かに、物理的に取り外そうと思えば容易なことなのだが、不必要な摩擦が発生することが明白なので、極力そのままにしておくことが望ましい。
 プラチナ製の小さな輪が、左手の薬指から離れない。裏側にはイニシャルとか日付とかが入っている類のだ。
 物珍しさもあってだとは思うが、その存在が常に気にかかる。しかも、時折は自己主張してくる。右手でカバンを持っているから、左手でドアノブを開けるときにかちゃんと当たる。コーヒー豆を挽くとき、ハンドルを回す右手に対し、左手はしっかり本体を押さえる。握る際、木製のそれにコチッと当たる。テニスボールをバックハンドで打ち返そうと、左手も使ってグリップを握るとそこに今でなかった感覚に気付く。これが左利きの人だったら、マウスを操っていてもかちゃかちゃ触れるのではないだろうかと、勝手に気を回してしまう。
 初めの数日は、これから一生外すことがないのだろうと、しみじみと思うところがあった。だが、その考えは現実的でないことをすぐに知った。
 まず、食事を作るときは衛生面の理由から外すことにした。糠味噌を混ぜるときなんて。洗い物をするとき、特にクリスタルグラスを扱うときには、軽い衝撃でも当たり所によってはそのまま割れてしまいそうで怖いので、やっぱり外しておく。
 常時「指輪をする」という新しい習慣にまだあまりなじんでいないせいで、外しっぱなしのままになってしまい、しばらくしてから「しまった」と思い出すことが多々ある。
 結婚指輪を紛失するというのは一大事だ。物としての価値も低くはないが、それ以上に、世界で一つだけの意味合いを持っていて、それは仮に同じ物を求めたとしても、新品のフィルムと同様に、何の意味も持たない。
 しかし、探すべき場所は分かっている。台所の流し台の上、目の高さにある棚。胡椒挽きの左横。


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