神様にお願い

 結婚のもろもろにまつわる「決めなければならない作業」の一つ、住居の選定については、幸いにして特に悩むことはなかった。
 「とりあえず、うちに来たらええんちゃうの?」と、僕。
 「うん、そうさせてもらうわ」と、相手。「せやけど、母親がちょっと……。『マンションに住むなんて』って不安がってんねん」
 彼女自身もうちによく出入りしていたとは言え、いざ一緒に暮らしを共に始めるときには、「なんて言うか、家って言うよりもオフィスにいるみたいな感じがあって……」と一抹の不安を漏らしていた。
 生まれてこの方、一軒家に暮らしたことがない僕には目新しい発想だった。僕にとっては、慣れもあるだろうけれど、マンションの方が機能的で、生活そのものの整理整頓がきちっとしやすい気がする。
 新しい生活が一ヶ月ほどが経ち、ふと思い出して、実際どうなのか訊いてみた。
 「そこんとこは慣れてきた」と言い、だが続けて「せやけど、いつも家に誰かがいるっていう環境やったから、二人暮らし自体はまだ寂しく思えるときがある」。
 そう言えば、二人の間で結婚することを決めてから、「ともあれ、ご挨拶を」と、先方の一家と食事をすることになった日、予約してあったレストランの席が大きな円卓で驚いた。ご両親や弟さんの他に、お祖母さんや伯母さんまで登場された。核家族に生まれ育ち、大学が決まって一人暮らしを始めたときには無上の爽快感を覚えた僕とは、これまたまったく逆である。

 新しい部屋に入居したらタオルなんかを持って両隣と階下を訪れるあれだったら、僕も知っている。
 だが、彼女が言う「引っ越しの挨拶に行かなあかんよね」の対象は、神様だ。
 タイの土地の守護神は、アニミズムに発するプラプームチャオティー(土地神)と、古代インド出身ののプラプロム(梵天)との、主に二種類。いずれも目の高さほどの柱の上に乗った小さな祠の中に、前者には小さな人形が何体か(実際はそれぞれの役割を担った神)配されているし、後者は4面の顔と4本の腕を持つ像が鎮座する。たまたま、うちのマンションの敷地の一角に祀られているのは後者だった。
日曜の朝8時過ぎ。妻が珍しく先に起き出して、ベッドで寝こける僕に洗面所から声をかける。
 「お供え物探しにちょっと買い物に出るけど、一緒に行く?」
 おもしろそうだから、眠たいけれど、えいやと起きることにした。
 外は暑い。短パンにTシャツにサングラスでサンダル履き、妻はさらに帽子。マンションを出て、通りを渡ると歩道上にぎっしりと露天が並び、市場をなしている。平日の朝は、「おもしろそうやなー」と、出勤の車窓からうらやましげに眺めるだけなのだが、日曜でも変わらず店が出ているので、今日はじっくり探索できる。野菜、魚介類、肉類、調味料、雑貨に衣料、それに食事の屋台。近くにモスクもあるので、イスラム料理屋も出ている。
 途中でドリアンやローティーを買ってつまみながら歩く。白く小さなジャスミンの花を縫ってつないだ先端にマリーゴールドが配された、手のひらサイズの花輪を求める。バナナ一房と、ミカン一袋も買って帰る。
 「私は○○○ともうします。1ヶ月前に引っ越してきたのですが、お参りに伺うのが遅くなってしまい申し訳ありません。ここで平和で幸福に住まわせていただきたく、どうぞお守り下さい」
 僕もその横で合掌して、しばし目を閉じ頭を垂れた。
 「さて、どうしよっか。後でこのお供え物を引き取りに来て、家で食べる?」と妻が訊く。
 「うーん、どっちでもいいけど」
 と、通りかかったマンションの庭師に、妻が尋ねる。
 「すいません。ここにお供えした物は、持って帰った方がいいんですか、それとも置きっぱなしに?」
 「どちらでもかまへんよ。もし事前に言うてもらえたら、おっちゃんが引き取るけど」
 「ほな、もしよかったら、持って行ってもらえると」
 「せやな。2、3時間もお供えしておけば、神様もお腹いっぱいになられるからな、その後にでも」
 2、3時間でお腹いっぱいというのは良かった。「お線香が燃え尽きるまでの時間ってのも、よく言うねん」
 この神様、我々を加護してくれるのだが、どちらかというと外的な悪しきものからであって、家庭内の問題になるとあまり関知する範囲ではないらしい。
 「夫婦喧嘩が起きないようにしてくれたりはせえへんの?」と僕。
 「それは、あなたが気をつければ済むだけの話やろ」


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