グレードの高い生活

 数年前の年始に「これからは、飛行機に乗るならビジネスクラス以上」との目標を掲げたことがある。新年の抱負としては奇妙に聞こえるかもしれないが、そこに投影されているような、余裕のある生活を手に入れるべく努力しようとの決意である。これまでのところは、完璧でないにせよそれなりに悪くない成果を収めてきている。
 言わずもがなであるが、ビジネスクラスのチケットは高額である。燃油サーチャージ高騰の折でもあり、正規運賃だと全て込みで46万円ほど。バンコクで格安航空券を手配しても、20万円ほどになる(僕が主に利用するのはANAのバンコク・成田路線なので、本稿は極めて限定された情報にのみ基づく)。それでも何やかんやで、年に2回か3回くらいは利用している。
 ITベンチャーで成功を収めたわけでも、逆玉の輿に乗ったわけでも、宝くじに当たったわけでもない。ただただ地道にマイルを貯めて、エコノミークラスからのアップグレードを図っているのが真相だ。本末転倒とまではいかないにせよ、「釣りに行くから、今日の晩ご飯はお刺身だぞ」と意気揚々と宣言したマスオさんが、帰り道にこっそり魚屋に寄って来るような可笑しさからは逃れきれない。発想の土台にあったはずの裕福な生活というのは、残念ながら、からっきしである。
 通常に購入したチケットと比較すると、一部サービスに制限があることはある(ハイヤー、マイル加算率等)。だが、やはりエコノミーからすると、随分と「アップグレード」されている内容が多い。
 まず、出発地の空港では、専用のカウンターでチェックインできる。そこに敷かれている絨毯に、あまり意味合いは感じられないが、長蛇の列に並ばないでよいのは助かる。機内預け荷物の重量制限が20kgから30kgへ緩和される。だいたい、日本で大量の買い物をして帰るので、それでも超えてしまうこともしばしばだが、幸いこれまでは超過料金を請求されずにすんでいる。
 搭乗までの待ち時間に専用ラウンジが使える。ラウンジを提供している航空会社の搭乗案内しか流れないので、一般的なエリアよりも静かである。無線LANにつなげたり、お酒があったり軽食があったり、成田ではシャワーも浴びられる。さらに時間が来ると、優先的に機内へ案内される。
 座席は広く、前後の幅もゆったり。リクライニングの角度が大きいので、眠りも深い。フットレストも含めた座席の各部分は、手元の電動コントローラーで操作する。手すりのボタンを押しながら、よいしょっと背中に力を入れる必要がない。パソコン用電源や、可動式の読書用LEDライトが装備。液晶モニタのサイズも一回りほど大きい。手の届くところに小物入れが何箇所かあるので、眼鏡や目薬やiPod、あるいは読みかけの文庫本などを入れておくのに都合がよい。スリッパや軽い上着、羽毛の枕や毛布も用意されている。(特に長時間のフライトでスリッパは非常に具合がよいため、エコノミー利用のときでも持ち込むことにしている)
 搭乗したら客室乗務員が挨拶に来てくれる(あってもなくてもいいけれど)。ウェルカムドリンクには、シャンパンも配られる。ミネラルウォーターのボトルのサイズもエコノミーより大きい。食事の内容も良くなって、テーブルにはナプキンまで敷かれる。ワンプレートでなく、それぞれの食事のペースに従ってお皿が出てくる。食後のケーキもワゴンサービスからいろいろ選べる。機種によっては、バーコーナーなんというのまである。席数が少ないため、一人当たりのトイレの割り合いが高く、食後でもあまり混まない。
 そして着陸。機体が停止しベルト着用サインが消える。皆、弾かれたように一斉に席を立ち、頭上の棚から慌しく荷物を下ろす。だが、エコノミーの人たちはここでしばし止められる。先にビジネスクラスの乗客。ベルトコンベアーから真っ先に流れてくるのも、「プライオリティー」のタグがつけられた我々の預け荷物だ。
 身体的に楽なのは当然として、それよりもむしろ、時間の有効活用に大きな意味合いが見出される。各所でじりじり待つ、という飛行機の旅にまつわる避けがたい要素が、かなりの程度解決される。
 さて、今回。やはり往復ともアップグレードし、ウェブからいそいそと事前の座席指定。と、驚いた。エコノミーだと横に9席、ビジネスでも7席のところ、前方の2列だけは贅沢にも4席しかない。成田・バンコク路線は、そもそもファーストクラスの設定はない。もしかしたら、機材の都合でファーストを装備しているけれど、ひょっとしたらビジネスのチケットで乗れるのではないか。
 ウェブ上ではそこは選択可能対象から外されていたので、バンコク支店に電話で問い合わせてみる。
 「確かに、ビジネスクラスの扱いですが、座席はファーストです。普段はニューヨーク路線を飛んでいる機体です。ただ、こちらはアップグレードのお客様には、事前指定はいただけません。ビジネスクラス運賃でご購入いただいた方や、ステータスの高い会員様向けですので」と、それはまあ当然な回答であるな、と諦めかけたとき、続けての発言に明るい可能性が展開された。
 「当日、空港でチェックインの際に空きがあればご利用いただくことは可能です」
 往路はやはりふさがっていたのだが、1週間の日本滞在を終え、昼過ぎに伊丹を出て成田で乗り継ぐバンコクまでの帰路。伊丹空港の時点で、同時に成田・バンコクの搭乗券も手続きされる。成田から直接乗り込む人たちよりも数時間早いチェックインとなる。
 淡い期待を込めて訊ねてみる。「1列目か2列目で空きはありませんか?」
 「1のDがございますが」
 思わず小躍りしそうになった。
 まるで個室のようだ。ベッドのように真横に倒すと、席を覆っているしきりのおかげで外界がまったくシャットアウトされる。座席は確かに贅沢な作りだが、しかし、これ以外は通常のサービスである。和食をいただき、少しお酒を飲んだ。
 「機内免税品販売を終了させていただきます」のアナウンスに目が覚めた。iPodで落語を聴きながら、途中からすとんと眠りに落ちていたようだ。間もなく着陸である。目覚めて最初に意識したのは「やってもた!」だった。6時間の飛行の間に、たっぷりお酒を飲んだり、ゆるりと寝転がって読書に耽ったり、大きな液晶画面で映画を鑑賞したりと、優雅な時間を過ごすことを目論んでいたはずなのだ。ぐっすり眠っていただけなんて、あまりにもったいない。
 そんなところに損得を見出しているようでは、人生のアップグレードにはまだまだ程遠いのだろう。


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