おばあさんの最後の鶏

 中国、海南島について僕の知っていることはとても限られている。東南アジア各地で食べられる「鶏飯」の発祥の地であること。近年は「中国のハワイ」とも呼ばれるリゾート地であること。そして、妻の祖母の出身地であること。
 だから、おばあさんの茹でる鶏はめっぽう美味しくて、ことあるごとにおすそ分けをいただいていた。ショウガやトウガラシの入った酸味のあるさっぱりしたタレも、むっちりしたジューシーな肉にぴったりだった。中でも、透明感のあるつるりとした皮が特に好きだった。
 「もう年なんだから、誰かに代わりに行ってもらったらいいのに」との周囲の声をよそに、82歳になってもヤワラート通り(中華街)へ、新鮮でしかもちゃんとした認証のある安全な鶏を買いに出かけていた。

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 初期のガンだと診断され、少し前から入院することになった。お見舞いに行くと、「こないだ作った鶏と、竹の子の煮込みも冷凍庫にあるから、また取りに来なさい」と言っていただいた。
 「じゃあ、退院されたらすぐに伺いますね」
 だけど、予定の日は伸びていき、ある日の夕方の電話で妻が告げた。
 「おばあちゃん、亡くなったから」
 ほんの1週間ほどの入院だった。

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 翌朝、病院から遺体を寺へ移すにあたり、納棺の儀式が執り行われた。防腐処理が施され、生前と同じよそ行きの服を着て、アクセサリーも身につけている。
 親族の手によって、ご飯やおかず、あるいは水が口に運ばれる。移動式の寝台から木製の棺へ。頭の方には「福」、足下には「壽」と金色に大書されている。消臭のため、茶葉が一緒に入れられる。泥のようなもので目張りされ、継ぎ目には金色の紙が貼られる。線香を上げ、祈りを捧げる。

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 通常、亡くなった日を初日と数え、七日間にわたって葬式は行われる。ただ、たまたまマーカブーチャー(万仏節)にあたった内の一日は、寺としては個々の葬儀は行わない。そのため、やはり慣習に従って、二日間延長されることになった。期間中、喪主は毎日変わる。親族だったり、近所の人だったり、子の会社であったり。
 会場に入り、まず仏像の前に跪く。合掌を解きつつ手のひらを左右に広げると同時に額ずくこと三度。奥に棺が安置された祭壇にて、やはり跪いて線香を一本手にして死者へ合掌。親しい人は、棺の足の側をコンコンと叩いて挨拶の言葉をかける。
 毎日午後7時過ぎからの式は、前半に僧たちによる読経が行われる。遺族が供物を捧げる際、それぞれ服の一部をつまみ、全体がつながった形を取る。
 後半はこの式全体を仕切ってくれるオーガナイザーのごときおじさんの仕切りで、中国語も交え死者への供養の儀式となる。祭壇のすぐには当日の喪主が立ち、その後ろに参会者がずらりと並ぶ。このとき、親族は男女に分かれて部屋の両側に座っている。一族が参列者へ一礼し、最後に死者に対し四度額ずく。
 これらはずっと続くわけでなく、読経も20分くらい続いたら適宜休憩が挟まれる。合間には、豚の内臓が入った粥や、ワンタンスープや、魚の胃袋の煮込みなどの小さな椀が供される。お代わりをしている間に次のセッションが始まってしまい、慌てて駆け込んでくる人もある。中華系の人のパワーの源泉の一つは、やはり食べるということにあると思った。

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 式には、日本から飛んできた僕の両親も参列した。何気ない会話の中で母親から聞いたのは、日中戦争時には日本軍が海南島を占領していた時期があるということ。僕はまったく自分の無知に恥じ入った。そんなことは考えたこともなかった。
 直接聞いたわけではないけれど、おばあさんがタイに移民してきた年齢を考えると、日本軍の占領時代を当地で経験しているはずだ。
 もしかしたら、自分の初孫が結婚する相手が日本人であると知ったときに、何かしらの思いを抱いたかもしれない。だけど、初めてお会いしてから生涯を閉じるまでの、ほんの1年ほどの間だったけど、そのことについて僕が何かをうかがい知ることはなかった。今から思い返しても、くしゃっとした顔で悪戯っぽく笑う向こうに何かあったと考えるのは少し難しい。

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 八日目、お寺で迎える最後の夜。この日の行事は「コンテック」と呼ばれる。辞書を引いてみると、「功徳」という中国語の語源が見つかる。
 いつもより早く夕方には式が始まったが、僕が駆けつけられたのは6時過ぎだった。趣は前日までとずいぶんと異なっており、中国式が全面に出ていた。僧もいわゆるタイの仏教のではなく、両肩を覆う全体的にゆったりした衣の人たちだった。オレンジがかかった黄色は、微妙にタイ仏教僧の色味とも違う。僧の奏でる木魚や鉦があり、さらに後方には琴やラッパや太鼓の楽団もある。耳に賑やかであった。
 これまでも、死者の子とその配偶者は麻でできた茶色い衣装を身につけていたが、今日は末端の僕まで特別の衣装を渡された。ゆったりした綿の白い上下に、頭には青く四角い帽子、そして腰には同じ色の帯を締める。故人との関係によるが、男の子側の孫は白い帽子、僕らの青は妻の母親が故人の子どもだからだ。僕のは帽子タイプだが、妻も含めた直系の孫たちは、ちょうど日本の幽霊のイメージに近い三角に折った布を結びつけている。
 今日は死者の霊が招かれる。一部は灯籠と遺影に、そして一部は棺に宿るとされる。
 木でしつらえた小さな橋を、僧侶たちを先頭に、死者の長男が線香立てを両手に捧げ、次に次男が死者の服をかぶせた灯を持ち、その後に合掌した手の間に線香を持った親戚が一列になって渡る。渡り始める際、そして降りるときに、水をはった洗面器のようなところへ都度1バーツ硬貨をぽちゃんと落とす。全部で30人くらいの親族がいるのだけど、橋を渡らないでその横を歩く人がいる。後で妻に聞いてみると「生理中の女性」とのこと。
 行列が何度か橋を渡ると、今度は逆方向に歩く。死者を天国へ見送った後に、我々は現世へ戻ってくるのだ。
 この日の最後には、死者に送り届けるため、紙でできた供物を燃やす。それぞれには、故人が一番好きだった服の端切れが添えられている。向こうで自分の物だと分かるように。
 例えばそれはテレビであったり、冷蔵庫やテレビやラジカセや扇風機であったりする。リモコンが付属していたり、ソニーとかフィリップスとかブランド名もあって、なかなかそれらしくできているのだが、電化製品はそろいもそろって1970年代くらいの雰囲気が漂うデザインだった。あるいは、応接セットには、ポットと茶器も乗っている。このあたりまでは、ほぼ実物大の細工である。
 これ以外に、赤いベンツや、天国行きのファーストクラス航空券なんというのもある。一番大きなところでは、花の咲き乱れる庭を持った家。4人くらいでよいしょっと捧げ持つ。全て紙と簡単な木の構造でできている。
 これらは専門の店に注文したものだが、大事なのはそこに詰める金である。金色や銀色の紙を、金塊や船や花の形に折る。これはお寺に来た最初の日から、日がな親族が折り貯めてきたものである。
 はっきりした根拠があるわけではないが、少なくとも自分の妻を見ていると、祖母が亡くなった悲しみやショックも、親戚どうしでおしゃべりをしながらずっと手を動かすことで軽減されるという意味合いもあるものだと感じた。僕はそもそも鶴さえ折れないので、親戚筋から「そんなんやったら、おばあちゃんも向こうに行ってから使えへんで」とからかわれながら、少し参加しただけだったが。
 どれも4回持ち上げてから、部屋から持ち出して炉へ向かい、盛大に燃やす。読経が流れる。煙と大きな炎が夜の闇の中、閉ざされた鉄の扉の向こうにほの見える。
 「皆様、振り返らずにまっすぐお戻り下さい」と促される。時刻は真夜中に近い。

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 九日目。この日は朝から始まる。やはり昨日と同じ喪服をまとう。
 読経がお寺で営まれた後、棺をバスに乗せ、バンコクから東へ。先頭のバスには棺が乗っている。自分の車で同行する人たちは、ワイパーやサイドミラーにピンク色の布を結びつけ、ハザードランプをずっと点灯させ、周囲に同じ葬送の列だと知らせながら進む。
 スワンナプーム空港を越え、チョンブリーまで1時間少々の道のり。中華系の人たちのための墓地として、丘陵地帯に広大な敷地が用意されている。妻の実家でも、年に一度のチェンメン(=清明:二十四節季の一、春分後15日め。華僑・華人の祭日で、先祖や故人の墓に詣でる)で訪れるが、僕は今回が初めて。
 昼前に到着したここでも、まずは腹ごしらえ。白粥を、沢庵やピーナツや漬け物や腐乳(豆腐ようの原型)などと食べる。
 天井の高いお堂での祈りが少しあり、そして棺はいよいよ埋葬地へ運ばれる。
 この数日で暑季に入ったようで、照りつける太陽は強烈だが、風が吹いているのでまだ救われる。 13年前に亡くなっているおじいさんの隣に、コンクリートの敷かれた四角い穴がある。棺を安置するとき、遺族はそちらを見ないように注意をされる。
 そしてやはり我々は一列になって、土を一つかみと1バーツ硬貨をかける。鶏や魚や果物などを捧げ、オーガナイザーの口上に従って、「新しい家にやってきました。どうぞ安らかにお休みください。子孫たちが健康でありますように。裕福でいられますようにお守り下さい」と告げる。
 埋葬が終わると全員が葬儀のための服装を解き、あらかじめ用意していた別の服に着替える。これまでの趣向を変え、明るい色、特に縁起の良い赤い色が多い。僕も赤いTシャツをまとった。食堂に戻り、水に浸したザクロの小枝を自分の頭に4回振りかざす。穢れを払うこれは、日本ならさしづめ塩が担う役割であろう。
 土をつかんだ手や、汗をかいた顔を水道水で洗う。サンダル履きの人たちは、足も洗っていた。用意された飲み物の中から、ひさしぶりにコーラを飲んだ。
 バンコクにある故人の家へ向かい、やはりザクロの枝を同じように用いる。
 祭壇に遺影を安置し、一人ずつ線香をあげる。小椀に盛られた、赤く着色した蜜の入ったタピオカを一口すすり、豆やおこしなどの取り合わせられた中国系のお菓子を一つ選んで口にする。
 これでおしまい。「うちに帰ろう」と妻に促されて後にする。

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 その夜、数日前に親戚の一人がおばあさんの家から持ってきてくれた鶏の半身を、冷凍庫から取り出して温めて食べた。おばあさんの最後の鶏だ。

 


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