グッド・ラック!

 相手は何も知らない。けれどその瞬間になると、びっくりして、そしておそらくは喜んでもらえるだろうという予感を持っている。最初の結婚記念日の、妻への秘密のプレゼント。12月の中頃に手配してからの3ヶ月間、一人そんな楽しみを胸に抱いていた。
 「当日は何をしようか」との話し合いは、あっさりと、式場だったホテルに宿泊しようという結論にいたった。
 土曜の午後にチェックイン。プールサイドで読書に昼寝。365日前のこの時間は、文字通り走り回ってたよな、と思い出しながら、今日はゆっくりとまどろむ。夕食は併設の地中海料理のレストランへ。足元から天井まで突き抜けた巨大なガラス窓から、チャオプラヤ川を挟んで対岸の夜景や川面を行き来する舟が見える。ちょっと豪勢な夕食とお酒。
 翌日、結婚記念日。朝食をとってから、「婚約式」の会場だった川縁の古い民家風のレストランで一年前を追憶する。昼過ぎにチェックアウト。
 さて、ここからは日常復帰。エンポリアムデパート内のスーパーマーケットに買い物に行こうという話にしていたので、タクシン橋を渡ってサートーン通り。本来ならばそのまま直進なのだけど、ハンドルを握る彼女に唐突に指示をする。
 「左寄って、そこから高速に上がって」
 彼女は「どいうこと?」と怪訝な顔をしながらも、車を止めるわけにもいかないので、とりあえず、北に向かって車を走らせる。
 ドンムアン空港、国内線ターミナルビルに到着。駐車場に車を置いて、すたこら歩いて出発階へ。展開が見えないまま、彼女は着いてくる。
 僕は一人ほくそ笑む。これから、いよいよである。
 が、ここで、僕のプレゼントを提供してくれるオフィスの場所が分からず、担当者に電話をかける。
 「あのう、今日の2時で申し込んでいたものですが」
 「予約はありませんが?」
 「担当のティダラットさんですよね? あなたからの確認メールをいただいているのですが」
 「申し訳ありません!! 1時間ほどお待ちください。すぐに手配いたします」
 サプライズのはずが、何より一番驚いたのはこの僕に他ならない。3ヶ月前からの画策は何だったのだ。
 他にどうしようもないから、駐機場を見下ろせるターミナルビル内のベンチに座ってぼんやり待つ。妻は、相変わらずわけが分かっていないままだ。
 祈るような気持ちでいると、再びティダラットさんから電話がかかり、「今到着しました」
 足早な彼女について、搭乗券も持たないまま国内線出発ターミナルへ入る。手荷物検査場を通過し、警備員が一人だけいる搭乗ゲートから、既に待っていたマイクロバスに乗り込む。
 途中で乗り込んできたパイロットに、ティダラットさんが「急な話ですみません」とか言っている。
 ターミナルビルのちょうど反対側にある事務所に到着し、今日のガイダンスを受ける。ここに至って、プレゼントの中身が明かされる。僕が用意していたのは、1時間の遊覧飛行。
 妻はまず驚いて、次に、なぜこんなところに来たのかという疑問に得心して、そして喜びと興奮を全身から発散している。よかった、と僕は思った。
 だがしかし、実際にしかし小さなセスナ機を目にすると、唐突に不安がわいてきた。機体はちゃんと整備されているのだろうか、燃料は入れ忘れてないか、パイロットの腕は信頼に足るのか、唐突に雷雲が発生したりしないのか。
 悪い思いつきは次々に増殖し、時々刻々とそれは冷たく重くなってゆく。楽しい予感の3ヶ月間、僕は自分が飛行機に弱いということを、できるだけ忘れるように努力していたのだ。今になって、堰を切ったようにその事実があふれ出す。
 一方で、喜色満面の妻が、突飛な質問をした。
 「操縦もさせてもらえるんですか?」
 そんなアホな、あくまで上空から景色を眺めるだけやで、と僕が返事をするよりも早く、パイロット氏。
 「やってみます?」
 操縦席にはパイロット。その隣、やはり操縦桿のある席に妻。通話用のマイクがついた、ごついヘッドフォンを装着。僕は後部座席に一人座る。これ以上はないくらいしっかりとシートベルトを締めて、何度も確認する。
 ぷーんとプロペラが回って、駐機場から滑走路へタクシング。ちょっとスピードに乗ったかと思ったら、もう空に浮いている。ゆっくりと上昇を続け、旋回して北向き。
 基本的に僕は飛行機が苦手なのだ! 何よりも高所が怖い。そして、上昇はともかく、落下の感覚は生理的にダメージが大きい。普通の飛行機でも、上昇の合間に軽くひゅっと落ちる感覚があると、いつもいつも嫌な汗をかく。
 小さく軽い機体だけあって、曲がったり高度を変えたりする感覚が、直接的に身体に伝わってくる。一人、座席にしがみついて恐怖に耐える。背中だけでなく、手のひらや足の裏にまで冷たい汗をかき、不快な層を形成している。
 操縦桿を握る妻は、たくさん並ぶ計器類の中からパイロットが指し示すものを確認し、何かしらを話している。風の音とプロペラの音とにかき消され、僕にはその教習の内容は聞き取れない。
 彼女が少し後ろを振り向き、親指を上げてみせる。グッド・ラック!
 通常の旅客機ほどは高度を取らない分、地上がリアルに近い。しばらくは市街地が続き、高速道路を行く車がはっきり見える。次第に農村へと風景が変化し、水牛の群が灰色の点々として草原の中にある。天気はあくまでも晴れている。それでも時折薄い雲の層を通過する。かたかたと揺れる。そして僕の必死さは程度を増す。汗がしみ出す。両手は何かしら掴むことのできる対象を探し求め、両足は靴の中で平らな床にしがみつこうと無為な努力を繰り返す。
 アユタヤまで来ると、妻は本職に委ねてよいしょと後部座席にやってきた。興奮覚めやらぬまま、引き続き景色に見入っている。
 しかし、さすがにプロの操縦は滑らかさが全然違う。ようやく僕も少し人心地を取り戻し、眼下を眺めると、アユタヤの遺跡群が明るい午後の日差しの中に点在している。ロカヤスタ寺の全長46メートルの涅槃仏もよく見える。蛇行するチャオプラヤ川が太陽を照り返し、はっとするほどに美しい。
 着陸は当然のごとく、パイロット氏。ドンムアン空港の時代には、滑走路北側の大きなため池が見えると、バンコクに来たのだと胸が躍ったものだが、今日は「ああ、ようやく帰着だ」と安堵感の方がはるかに大きい。
 無事に地上に降り立って、じゅうぶんだろうと思って僕は言う。
 「どないやった? ええ体験できたんちゃう。まあ、しかし、一生に一回のことやな」
 「そやね。ありがと。めっちゃ楽しかった。空は堪能したから、次、結婚10周年記念は、宇宙やな!」


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